は早足で副官の龍山を連れて執務室に戻ってきたが、誰にも声をかけることなく流れるような動作で執務机へと向かい、書類を置く。
L字の執務机の端で仕事をしていた阿伏兎は少し悩んでいた書類があったのか、「丁度良かった、聞きてぇことがあるんだが、」と言ったが、完全に無視された。ただし、阿伏兎が無視されるのはよくある話なので、誰も気にしない。
彼女は誰にも視線を向けず、置いた書類をじっと眺めている。L字の机の前のソファーに寝転がって彼女の息子の東を自分の体に乗っけて遊んでいた神威は、顔を上げて彼女を見た。
「おかえり。」
「…」
彼女は神威の挨拶など完全無視で、脳内思案に忙しくて聞いていない。あ、何かあったな、とすぐにわかった神威は自分の上に乗って遊んでいた東を下ろしてから身を起こす。副官の龍山は少し困ったような顔をして、を見ていた。
「…うん。」
は何かを納得したのか、一つ頷いて執務室の席に座った。
「何かあった?」
神威はの執務机まで歩み寄って、そこに肘をつくと、片手を伸ばして向かい側に座っているのポニーテールを引っ張る。
「いや、問題ない。」
は悩んでいたのが嘘のように、考えることもなく即答した。
ただ、神威の最初の「おかえり」を無視するほど思案を巡らせ何かを考えていたということは、それなりの問題があったのだろう。それが他人にとって些細なことだろうと、彼女にとって些細ではなかったはずだ。
神威はぱっとのポニーテールを握っていた手を離して、の表情を注意深く観察する。彼女の漆黒の瞳は相変わらず落ち着いていた。
たいしたことではなかったのかも知れない。
「まみー」
東がばんばんとソファーの背を叩いて、母を呼ぶ。
は顔を上げると、執務机の椅子から立ち上がり、伸ばされている東の手に導かれるように、体を抱き上げた。東はの肩に手をついて体を支える、僅かに、彼女が表情を歪めた気がして、神威は目をこらす。
「そういやぁ、来ねぇな。新しい奴。」
阿伏兎はがしがしと自分の頭をかいて呟いた。
「え?新しい団員がくるなんて聞いてないヨ。強いの?」
新しい団員が強いことなんてほとんどないが、神威は一応尋ねてみる。
「団長のお眼鏡にかなう強い奴なんてそうそういねぇよ。夜兎が他にいねぇところで育ってて、暴力沙汰ばっか起こしてしかたねぇから、親が入れたんだと。」
「あははは、すぐ殺されるんじゃない?そんな馬鹿。」
基本的に任務地から任務地に向かう間、宇宙船の中に閉じ込められる団員たちは、字も読めないことが多く、やることもなく苛々する。そのため、喧嘩だけが暇つぶしなのだ。肩が触れあっただとか、髪の毛が落ちただとか、喧嘩の理由はばからしいものばかりだ。
馬鹿の中では強さが全て。第七師団で生き残っている団員は皆、屈強な猛者ばかりだ。神威のお眼鏡に適うほどではないが、団員は夜兎や荼吉尼など傭兵部族が多く、喧嘩には慣れている。更に任務などで幾度も死地を超えてきている。
夜兎とは言え、第七師団は夜兎のいない星で弱い奴をいじめて暴力沙汰を起こしてきたただの馬鹿が、周囲に喧嘩を売って生きていられる場所ではない。
井の中の蛙は、井戸を出た途端に食われるものだ。
「…」
いつもの神威の軽口を聞いて、の副官の龍山が何とも言えない表情で、子供を抱いているを見ている。彼女もその視線を感じたらしいが、子供を抱いたまま、黙っていた。意味深な二人の表情に、神威は不快感を覚える。
何を隠しているんだろうか、ふたりで隠し事をしているというのは気分が悪い。
「来ねぇってこたぁ、もう殺されてるかもなぁ。」
空気の読めない阿伏兎が肩をすくめて言って見せる。
実際に第七師団に入ってから、契約のために執務室に来ることなく、すぐに団員に喧嘩を売って殺された入団希望者は実は結構いる。自分は強いと思っている馬鹿が、周りに喧嘩を売り、すぐに殺されて終わるのだ。新たな団員だという男が、執務室まで来れなかったとしても、無理はない。
「…多分その人、医務室。わたしが殴っちゃったんだよね。」
子供を抱えたまま、がぽつっと言う。
「は?何をだ?」
「…多分、その新人。」
「はぁああああああああああああ?!」
阿伏兎があまりに想像もしない自己申告に、叫び声を上げる。神威も眼を丸くして、を見た。龍山はため息をついている。どうやら隠していたと言うよりは、言いにくかったらしい。
「何それ。珍しいネ。がそんなことするなんて。」
「そいつぁ、ものでも壊したのか?」
は基本的にあまり苛立ちを面に見せる方ではないし、誰かに喧嘩を売るのも面倒だと思っている。自分は喧嘩をしないが、大抵の場合面倒なので団員たちの喧嘩も止めない。そんな彼女が団員と喧嘩をするには、主に二つの理由がある。
ひとつは相手が完全に敵に回り、自分を襲ってきた時だ。これは他の団員も参加することがあるし、裏切り者としての処罰で、は刀を使って応戦するため、一発斬り伏せられることが多い。
もう一つは、団員たちが重要なものを壊しそうな時、ないしは壊した時だ。は会計役として宇宙船の整備などの作業の確認も行う。喧嘩で重要な離発着用のポートや端末を破壊されては、たまったものではない。
そういう時、真剣ではなく、は竹刀だったり木刀で相手をし、団員を何とか殺さない方法を考えている。ただ、そんなことを考えられること自体が、団員とに大きな実力差がある、という証明でもある。
「肩ぶつかってきて、凄んでくるんだもの。」
「そりゃ、そりゃ、大層な恐れ知らずがいたもんだ。おまえに襲いかかってりゃ、命がいくつあってもたりねぇ。見所があるかも知れねぇぞ。」
阿伏兎は口角をつり上げて、手を叩いて笑った。
確かに一見すればは華奢だし、頭こそ銀髪の天然パーマだが、顔もお世辞なしにそこそこ可愛い。女日照りの海賊では、集団で襲ってでもヤりたいと思う程度には、良い女だ。見た目は地味で、書類仕事以外何も出来そうではない。
ただし実際には、その剣の腕は阿伏兎ですらも怯んでしまうほどのもので、刀を取り上げない限り、そんじゃそこらの夜兎の男より遥かに厄介だ。
「女を見る目がないネ」
神威もの着物の袖を引き、自分の隣に座るように促す。東を抱えていたは、漆黒の瞳に僅かに安堵の色をにじませ、ソファーに座る。
の変化に対してだけはめざとい神威は、その表情の変化を見逃していなかった。
自己申告
河南は団員に連れられ、参謀兼会計役の執務室を訪れて驚いた。
広々とした執務室の奥には、L字の机が置かれ、中央にむかつきのあまり河南が掴みかかった銀髪の女が座っている。L字のもう一方には、少し長めの黄銅色の髪の、中年の男が座っていて、薄笑いを浮かべて河南を興味深そうに見ていた。
「おまえっ、」
河南は女を睨み付けて叫ぼうとしたが、河南を連れてきた青い鬼の姿をした団員が、ぎろりと睨んできたので、掴みかかるのをやめる。
それに、河南は何故か頭に酷い怪我をしていた。よく覚えていないが、恐らく彼女と一緒にいた夜兎の男にやられたのだろう。医務室に従事している団員は河南の怪我の手当てをしながら、くれぐれも銀髪の女に手を出してはならないと言っていた。
理由までは言ってくれなかったが、きっと一緒にいた夜兎の団員の、愛人か何かなのだろう。強い奴の愛人なんかになって人を虐げるなんて憎々しい奴だと河南は思った。
執務机の前に向かい合っておかれている、男が三人は座れるだろう大きな緑色のソファーには、これまた河南と同じ年頃のオレンジ色の明るい髪の男が座っていて、向かい側に座った黒髪の男の子と神経衰弱をしている。
何故、春雨きっての戦闘集団とされる第七師団に、子供がいるのだ。
「いっちょ!!」
小さな手でカードを二枚ひっくり返し、それが同じだとわかると、男の子は甲高い声で叫んだ。
「えぇ、また一緒?ずるいヨ。」
男は大きな青色の瞳を僅かに見開き、唇をとがらせて文句を言う。
「ずるいない!」
「神威、やめたら?東はわたしに似て、記憶力は良いって前言ったでしょ?人の話は聞きなよ。」
女は男に視線を向けることもなく、書類に淡々と何かをかき込みながら、口だけを動かす。
「は黙ってろヨ。まだ負けてない。」
女が止めにかかったが、男はまだ諦めきれないのか、トランプのカードをじっと眺めていた。
「おまえさん、いい加減ゲームより、ちっとは仕事しろよぉ。」
黄銅色の髪の中年の男は、ため息をついてオレンジ色の髪の男を見るが、彼はいっこうに目線を河南に向けない。完全に河南より神経衰弱の方に夢中だ。女も書類に夢中で河南に目を向けない。
ここは人を無視する人間の巣窟なのだろうか。
「うるさい。俺は今忙しいんだ。これだから阿伏兎はいつも駄目なんだよ。」
終いには男は悪態までついた。
「なぁにが忙しいだよ、このスットコドッコイ!おぉい、!おまえもなんか言えや。」
「神威に言っても駄目だよ。わたしは仕事をするの。」
女は執務机にかじりつくようにして、恐ろしい速度で右からとった書類に判子を押し、目を通して左側に置いていく。その流れるような動作は美しく、効率的だ。河南に意識を向ける気は微塵もなさそうで、河南の苛立ちは増す。
ただ、この場で河南の苛立ちを慮る者などいない。
「ちゃんよぉ、なんでそんなに苛々してんだよ。俺、手伝ってんだろ?」
「阿伏兎の誤字脱字が多いからじゃないかな。この間、貴方が動力庫壊した件の経費の書類が不備で帰ってきたの。」
「…そりゃ悪かった。」
阿伏兎と呼ばれた中年の男は、あっさりと女に対して謝った。河南としては何故そんな年下の女に謝るのかよくわからないが、上下関係があるのだろう。それすらも不当な気がして、河南はピアスのついた眉を寄せる。
「はー、仕方ねぇなぁ。俺は阿伏兎、第七師団の副団長だ。これからよろしくな。」
阿伏兎と名乗った男は立ち上がり、河南の方へとやってきて手を差し出した。身長は180を超えているだろう。河南はいかにも強そうな猛者と言った面持ちのその男と、握手を交わす。
「あっちに座ってるのが、参謀兼会計役。見た目と違って腕っ節強いから手ぇ出すなよ。んで、そこで神経衰弱に夢中なのが団長の神威だ。」
阿伏兎は気怠そうに視線を向けた。河南はそれを聞いて、眼を丸くした。
「はぁ?!こいつが参謀で、こいつが団長?」
銀髪の女は、要するに女伊達らに第七師団における役職者のひとりというわけだ。更に自分と同じ年頃のオレンジ色の髪の男−神威がこの第七師団の団長だという。夜兎とは言え、戦闘集団の長というには、あまりに不釣り合いだ。
どう見ても阿伏兎の方が強そうに見える。
「冗談だろ?アンタの方がこの団長とか言う奴より、断然強そうじゃねぇか?こんな奴が、なんで団長とかなってんだよ!」
河南は思わず、驚きをはき出すように言葉を発していた。だが、それは空しく響いただけで、なんら意味をなさない。ただぴくりと、オレンジ色の髪の男のアホ毛が反応した。
「おいおい、長生きしたかったら言葉に気をつけろよぉ。」
阿伏兎が心底疲れた様子で、髪をかき上げてため息をつく。
「だって、そうだろ!どう見たって、こいつ俺と変わらねぇし、弱そうじゃん!だから…」
河南は自分の心に浮かんだ言葉をそのまま矢継ぎ早に吐き出した。だが、自分の傍をなにかが通り抜けていったことに気づき、言葉が詰まる。ギブスが巻かれていたはずの首に痛みが走って手で触れてみると、べったりと赤いものがついてきて、それを認識した途端に足が震え、そのまま尻餅をついてしまった。
僅かに後ろに視線を向ければ、刀がそこに突き立っている。
一度目彼女に会った時、首に受けた衝撃のせいで、首にはギブスを巻かれていた。刀はそれを切り裂いて、首にまで到達していた。ギブスがなければ死んでいたかも知れない。
刀を投げたのは、オレンジ色の髪の男ではなく、銀髪の女だった。
「うるさい、」
どこまでも鋭い漆黒の瞳が河南を見ている。その目には躊躇いも何もなく、河南をただの騒音−邪魔なものとしか捉えていないのを理解し、ぞくりと冷たいものが走る。
「…おま、…」
喉が震えて、何も言うことが出来ず、吐息だけが掠れて声として音になった。喉の怪我は、一センチでも違えば、十分河南の首を貫いていただろう。あまりの恐怖に言葉にはならない。先に、女の方が「ん?」と声を上げた。
「あ?あれ、さっきの人だ。」
「、おまえも人の話は聞きなよ。」
ダーツ