「そういえばは?」



 龍山はきょろきょろと部屋の中を見渡し、自分の上司であるがいないことを確認して、阿伏兎に問いかけた。



の奴ぁ昼ご飯の片付けしてるが。」



 執務室の隣には団長の居住区域があり、子供がいることもあって、神威とは東とともに大抵食堂ではなく、部屋で食事をすることが多い。今日は阿伏兎もここで食事をさせてもらったので、はその片付けと、夕飯の下ごしらえをしていた。



「大丈夫そうだった?」

「何がだ?」



 阿伏兎は龍山の質問の意味がわからず、首を傾げる。




「いや、…あのくそガキ…」




 龍山は言いかけたが、少し考えるように神威を見た。




「なに?」




 神威は東を抱えたままソファーに座り、いつもの笑顔もなく、その青い瞳で龍山を睨む。



「…なんでもないっす…」

「なに、はっきり言いなよ。」

「いや、なんも。団長怒るし、」

「怒るようなこと、あるの。」




 龍山はうっと怯んで黙り込んでしまった。

 も認めているところだが、龍山はだいたい一言多い。しかも賢くないので、後先考えずに言葉を発する時がある。

 は第七師団において、だいたい副官の内の誰かを連れていることが多い。神威はなにかとについて行きたがるが、四六時中一緒にいるわけではない。今日、の副官で、荼吉尼の赤鬼と青鬼は所用で忙しいため、とともにいたのは龍山だけだ。

 が神威に隠れてこそこそ何かをするというのは、よくある。それに今日、特に河南に関しては何かを隠している風があった。神威もそれに気づいていたため、龍山のおかしな態度もあって、しつこく聞いているのだ。

 賢いを問い詰めるより、馬鹿な龍山に聞いた方が早い。

 不穏な空気に、阿伏兎が息をのみ、東が神威の手から離れて阿伏兎の足下へとぽてぽてとやってくる。阿伏兎は安心させるように東の小さな肩を叩いてやってから、龍山を見た。




「いや、あの…」




 龍山は歯切れ悪く、視線をそらす。それと同時に話すのが躊躇われるほどの沈黙が、部屋を支配する。神威の怒りを感じてか、阿伏兎の足下にいる東が、ぎゅっと足に抱きつく手に力を込める。しかし、神威と龍山が言葉を発する前に、執務室の扉が勝手に開いた。



「姉御!大丈夫っすかぁ!?」



 ノックもせず、武器を持った団員たちがなだれ込むように入ってくる。



「おいおい、無遠慮だろぉ?おまえら。」




 少し驚きながらも、阿伏兎が言うと、「すんません!」と団員は素直に謝ったが、何故か視線はを探している。



「さっきから、なにごと?」



 も流石にうるさくなってきて気になったのか、執務室の方へと居住区に通じる扉から、執務室へと入ってきた。



「あ、姉御!大丈夫っすか!!」

「そうっすよ!おけがは?!」



 団員たちは口々にそう言って、へ詰め寄る。

 屈強の男である団員たちが小柄なを囲む姿は、やくざがいたいけな少女に詰め寄っているのとあまり変わらない図式だが、の方が生憎強いし、慣れているは怯む様子もなく、あたり前のように応対する。



「何も、ないけど。どうしたの?みんな慌てて、」




 は団員たちを漆黒の瞳で不思議そうに見返す。あまりに平気そうに返された団員たちは、驚いた顔をしてばっと龍山を振り返る。



「龍山が、姉御が新人に掴みかかられて飛ばされたって。」




 団員がおずおずというと、それぞれの視線が一斉に龍山に集まる。龍山はやばっといったあからさまに狼狽して、「団長に言うなって言ったじゃん!」と口走った。団員はそれを忘れていたのか、「あ、すんません、今のなかったってことで」と神威に頭を下げる。

 それは一体誰の墓穴だろうか。



「見てもらったらわかるけど、ひとまずわたしに怪我はないし、無事だよ。」




 は両手を開いて怪我がないことを見せて、団員たちを落ち着けるように言う。

 の姿はいつも通りだし、動きにぎこちなさもない。少なくとも大きな怪我はないから、龍山が大げさに言っただけだろう。それを確認して団員たちもすぐに傘の切っ先を下に向けた。だが、思い出したようにまた傘を振り上げる。



「姉御に掴みかかるなんて太ぇ奴だ!目にもの見せ、」

「見せなくて良いから。」




 は静かな声で言って、最初に武器を振り上げた団員の傘を取り上げ、それを肩に担ぎ上げて、僅かに眉を寄せた。




「姉御?」

「ひとまず落ち着いて。わたしは何もないし、…むしろ向こうの方が大けがしてるから。ね。」

「そりゃそう、っすね。」



 に掴みかかって無事で済むはずがない。団員は納得して互いに顔を見合わせる。冷静に考えれば、がそう簡単にやられるはずがないのだ。そんなことになれば流石に団長の神威も黙っていないし、強いからこそ団員はを認めている。



「心配してくれると嬉しいけど、みんな焦りすぎだよ。おちついてね。」



 はそう言って、穏やかに団員たちを部屋から追い出す。団員たちもの無事な姿が見られて安心したらしく、納得したように頷いて帰って行く。静かにそれを見送って、扉が閉まるのを確認すると、部屋に沈黙が走った。



「…ぶと、」



 阿伏兎の足下にいた東が、怯えるようにぎゅっと足に強く抱きつく。阿伏兎が東の様子に首を傾げていると、が静かに口を開いた。



「ちょっと龍山、言わないでって言ったでしょ?」



 落ち着いた口調だったが、明らかに怒りが含まれている。



「いや、だって、団長には言うなって、」



 龍山はの静かな怒りに一歩後ずさった。

 は「団長には言うな」とは言ったけれど、団員に言うなとは言っていない。ただ怒りの眼差しを見れば火に油を注ぐ気がして、龍山は黙るしかなかった。を怒らせれば厄介なことは、部下である龍山が一番知っている。

 だがが龍山に詰め寄る前に、彼女の後ろにはもっと恐ろしい悪魔が立っていた。




「言わないでって、なにを?」



 の肩を掴んで、神威がにっこりと笑っている。途端にの顔が痛みで歪み、僅かに漆黒の瞳に困惑が含まれる。



「え、えっと…」

「ねえ、。俺いつも言ってるよね?おまえは俺のなんだから、体に傷つけたら許さないって。」



 青い目が丸く開かれてを映す。は振り向くのが怖くて、前を向いたまま口を開いた。



「あー…そうだっけ?」

「ちょっと見せてごらん?」




 神威は逃げようとしているの襟首をひっつかみ、執務室の隣にある、居住区域にを引きずっていく。




「わ、わたし仕事が!」

「あとネ、明日。」

「明日ぁ?!そんなの無理!ちょっ、」





 も抵抗するが、神威の怪力には敵わない。二人が隣の部屋に消えていくのを見送りながら、龍山は両手をそろえて拝むように自分の上司に合掌した。


痣隠し










「…で、結局なんなわけ?どういう経緯であぁなったんだよ。」





 阿伏兎はよくわからず、全てを知っている龍山に尋ねる。

 が団員と暴力沙汰を起こすのは、相手が裏切り者である時と、団員がものを壊した時だけだ。しかし今回河南をぼこぼこにした件は、どれにも当てはまらない。要するに、元々おかしかったわけだ。




「掴みかかったり、壁にぶつけたりしたから、あと、女のくせにとか言ったから、ボコられただけ。」




 龍山はあっさりと言うが、河南は首にギブスをはめられ、頭は包帯でぐるぐる巻きだったから、そんな簡単な話ではないだろう。その上、によって刀で首あたりに切り傷、神威の投げた皿を、東が打ったものが顔面直撃したため、顔も切り傷打撲で一杯だ。

 ただ龍山はあくまでの部下であるため、ざまぁ見ろとしか思っていない。




「珍しいじゃねぇか、あいつぁ気は長いと思ってたが、」




 阿伏兎に対しては絶対零度だが、直接的に阿伏兎に対して暴力を振るって来たことはないし、神威のようにむやみやたら人を殺すこともない。団員との喧嘩もほとんどなかった。だいたい何を言われてもにこにこにこにこおたふくさんかおまえはというほどに、団員に優しい。



「はぁ?結構短気だと思うけど?」



 龍山は阿伏兎の言っている意味の方がわからないとでも言うように、首を傾げる。




「そういやぁ、団長も似たようなこと言ってたな。」



 なにかの時に、神威もの方が自分より遥かに短気だと言っていた気がする。に対する性格や評価に関して、阿伏兎や一般の団員と、神威や副官の龍山たちとの間には、正反対の相違があることが多い。




「だからか、」




 阿伏兎はちらりと龍山を見下ろし、納得した。

 見た目は普通の華奢な体躯の女であるを侮る人間は多い。ところが彼女の剣術の腕と頭脳を目の当たりにすると、そのギャップ故か、彼女を無条件で崇めるか、諦めるかになる。それほどに、の才能は普通に見れば圧倒的なのだ。

 阿伏兎とて、団員たちの気持ちがわからないわけではない。

 特に頭脳に関しては、自分たちが考える程度のことなど全て彼女にはお見通しなのではないかと、底知れない恐怖を感じるときもあるし、間近での処理能力を見れば、正直機械かと思う。少なくとも書類だけでも阿伏兎の10倍ほど処理するし、マネできるものでもない。

 意識すれば5,6人の会話を同時に覚えているとも言っていた。


 しかし、龍山は馬鹿にもかかわらず、その頭脳に追いつこうと現在必死で勉強をしているし、剣術にも負けないようにと研究中だ。態度こそ敬語も使わず、に対する口調もぞんざいだが、それはある意味でを同じ“人間”として認識している証拠だ。

 だからこそ、神威は龍山のことが大嫌いだった。

 神威はに対する恋愛感情を認めようとはしないが、明らかに彼が抱いているのはに対する恋愛感情故の独占欲と、嫉妬だ。勘の良い神威は他人の恋愛感情と敬慕とを敏感に見分ける。

 神威が龍山を嫌うのは、を“人間”として見る彼には、恋愛感情が介在する余地があるからだ。



「むい、すごいおこってる…」



 東は阿伏兎の足にしがみついたまま、不安そうに言う。

 神威とともにいれば団員同士の喧嘩に巻き込まれることもある。神威が僅かな変化を見せた時、どこに身を隠し、どういう風に逃げるべきなのか、身の振り方は東も既に心得ていた。それは子供にとっては危機管理でもあるのだろう。

 そのため、東は神威の行動や機嫌に敏感で、一番確かな神威の機嫌バロメーターだ。



「…坊ちゃん、今日うちに泊まるか?」



 阿伏兎は足下にいる東を見下ろす。黒い旋毛とまっすぐな髪は、一体誰に似たのかわからないが、さらさらとしていて、撫でれば柔らかい。阿伏兎は子供好きと言うほどではないが、躾の行き届いた東に関しては可愛いと思っていた。

 だが、東はそうでもないらしい。

 東は漆黒の瞳で阿伏兎を見上げ、一度、二度とその大きな瞳を瞬くと、ぽてぽてと走って龍山の腰に抱きついた。



「ねー、りゅう、とめて。」

「良いけど、阿伏兎さんじゃなくていいのか?」

「ぶとはいや。」

「ぼっちゃん、なんでそんなに俺のこと嫌うんだよ!」




 阿伏兎が叫ぶが、東は龍山の元から離れない。

 の副官の赤鬼や青鬼、龍山には懐いている東だが、何故か阿伏兎にはいまいちだ。姿形が厳ついなどと言われることもあるが、荼吉尼で見たからに壊そうな赤鬼と青鬼に懐いていて、自分が嫌われているというのが、阿伏兎にはどうしても納得できない。

 東はぐりぐりと龍山の腰に頭を押しつけて、ぽつりと呟く。



「だって、くちゃい。」

「加齢臭?」



 からも一言が多いと言われる龍山も、発言に何の遠慮もない。




「やめてっっっ!俺の傷をえぐらないで!!」



心の傷