「ちょっと、アズマ吸い込まれたんじゃ。」


 東はまだ小さい。先ほど蹴られた恨みもすっかり忘れ、神威は東があの吸引力で穴に吸い込まれたのではないかと少し慌てた様子で早口で言った。

 ただ、それには心底申し訳ない気持ちになる。



「神威、そこの床、引きはがして。」



 は悩ましげに額を手で押さえ、鉄板でふさがれた穴の近くの床を示す。神威はそこに膝をつくと、こんこんっと軽く叩いた。そこは鉄板であるはずなのに、軽くない、鈍い音がした。神威も何故こんなことになったか、理由まではわからなかったが、原因は理解した。



「阿伏兎、傘貸して。」



 神威の傘は穴に吸い込まれてしまったので、背中に傘を持ったままの阿伏兎に言う。



「え?何にいんの?」

「こうするんだよ。」





 神威は阿伏兎から受け取った傘を振り上げ、に言われた場所を思いっきり叩いた。

 基本的に宇宙船の床というのは相当な合金で出来ているもので夜兎の力でも穴は空かず、へこむ程度だ。ごぉんという音が床全体に震えとして広がり、同時に小さく「ひっ」と悲鳴が聞こえた。

 ただそれきり、あたりに沈黙が落ちる。



「…」



 赤鬼と阿伏兎は顔を見合わせる。が深く、悩ましげなため息をついた。神威はしゃがんだまま、床板の隙間に手を入れ、無理矢理引きはがす。そこには三角座りをして、こわごわとこちらを見上げている東がいた。どうやら無傷だ。



「元気そうじゃねぇか。」



 阿伏兎も上から見下ろして、無事を確認する。



「あのね、東。船外に続く穴って言うのは、とても危ないんだよ?」



 は神威の隣に膝をつき、床下にいた東に真剣な顔で言った。

 単純な力では神威に敵わないと知っている東は、何らかの形で床板をはがすか、床下の穴に入り、そこにある船外に続く排気口かなにかの穴を見つけ、横穴を通って床下へと入り安全を確保していたようだ。

 最初から傘に紐のようなものを付けておいたのだろう。神威が傘を蹴り上げたと同時に、その力で船外と船内を隔てていた丈夫な排気口の蓋がとれ、重力で排気口を通じて外へと排出される。幼く力のない東にはまだ排気口の蓋を取るほどの力はないから、神威の力を利用したのだ。

 いたずらのつもりだったのかも知れない。ただ神威が、東が床下へと入る前に傘を蹴り上げていれば東が船外に放り出されていただろうし、神威が落ちていたとしても、それはそれで大変なことになっただろう。

 今この宇宙船は全速力で動いているのだから、船から落ちればただではすまない。ましてや宇宙空間だ。



「死んじゃうことだってあるんだから」

「みんな、いきてる」




 東はむっとして、をその丸い瞳で見上げてくる。は彼を見返して、どうしたらわかってくれるんだろう、と少し悩んだ。

 確かに、全員が生きている訳で、結果論としては問題ない。ただ過程として危険があったことは怒らなければならないのだが、なんと説明すれば良いのか、思いつかない。

 あまり構わないせいか、どうしても実子とは言え、と東の間には溝がある。は実父母を知らないし、義父はが何かしでかしても困った顔をしていただけで、勢いを付けて怒られたこともない。には抵抗された時、どうやって東に言うことを聞かせれば良いのか、わからないのだ。

 そのため未だには息子に対して手を上げたこともない。神威を間に挟まないとどこかよそよそしいというのが、二人の親子関係の現状である。何故こうなったのか、その理由は一つ。いつも神威を間に挟むからだ。

 良くないことだとわかっているが、仕事が忙しいとか、適当な理由をつけて息子と向き合わなかったが悪い。



「最近ほんと生意気。」



 神威は無理矢理東を床下から引きずり出し、「立って、」と遠慮もなく一言告げた。



「なに?」



 自分の非はよくわかっているのか、こわごわ東は立ち上がって、口をへの字にしたままそっぽを向く。神威は一通り東を見て怪我がないのを確認し、東の頭についた埃を払ってから、うにーっと東の柔らかいほっぺたを横に伸ばした。



「いががっが、」



 悲鳴すらまともに上げられず、東は手を振り払おうとするが、神威の手は離れない。痛みから漆黒の瞳にいっぱいの涙がたまり、声を上げて泣き出しそうになるタイミングを見計らったように、やっと彼は手を離した。




「う〜」




 赤くなった頬を小さな手で包んで、東は目尻をつり上げて神威を睨む。神威はわざわざ東と視線を合わせるために彼の前に膝をついた。



「あのね、俺はおまえをいつか殺すために育ててるのであって、強くないうちに死んでもらったら困るの。」

「それなんかちがくね?」



 阿伏兎が横から突っ込みを入れるが、当然神威は完全無視だ。殺すために育ててるなんて突飛出た目的、彼としては真実で嘘を言っているわけでもないが、全く隠さず、命を危険にさらした東を責めるのを見て、は少し驚く。

 神威の怒り方はにはよくわからない。遠慮がなくて、率直で素直で、にはマネが出来ない。ただ少なくとも彼は東の怒り方をよく知っている。



「それにね、壊した分のお金、誰が払うと思う?」

「…ぱぴーだって…こわしてるもん、」



 子供はまさによく見ている。が苦笑すると、膝をついている神威から軽く膝を叩かれた。



「うん。でも、俺は稼いでる。おまえは?」

「…ない。」



 神威が言葉を重ねるにつれて、つり上がっていた東の目尻が自然と下がっていく。それをはぼんやりと眺めながら、すごいな、と思う。



「なら、俺に言うことは?」

「…」

「も一回ほっぺた引っ張られたい?」

「…ごめんなさい、」



 ぎゅっと小さな手で自分の服を掴んで口を引き結んで、泣きそうな顔で言う。神威がぽんぽんっと東の頭を軽く叩くと、東は小さな手を神威に伸ばして勢いよく抱きついた。神威はそれを受け止めて背中を叩きながら小さな体を抱き上げる。




「…修理の見積もり取ってもらわなくちゃ。」



 は右手で東の頭を撫でてやろうとして、痛みに眉をしかめる。

 咄嗟に穴へと引きずられそうになった神威を掴んだ手。彼も突然のことだったし、身の危険を感じていたので、力の制御が出来なかったらしく、の親指と人差し指の間が真っ赤になっていた。



「大丈夫?もしかして折れてる?」



 神威は東を抱いたまま立ち上がり、の手をのぞき込む。東もじっとの手を見ていたが、は軽く手を振った。



「かもしれない、それにしても握力すごいね。手、潰れるかと思った。どのくらいなの?」

「500くらい。」

「…そういえばチンパンジーとかそれくらいだったかな。」

「何が言いたいの?」




 神威はにっこりとに笑いかける。「別に」と一言は答えて、神威の腕に抱かれている息子を改めて見る。

 小さな頭。漆黒の髪、丸い旋毛。気づけば大きくなって、よく歩くようになって、走るようになって、が彼を抱き上げることは重たいこともあってほとんどなくなった。縋るようにぎゅうっと神威の服を握る小さな手を眺めながら、自分がいかに情けない母親かを見るようで、少しだけ情けなく思った。




親とは