の右手は本人の見立て通り、神威に強く掴まれたせいで、手の甲が骨折していた。



「結構重症じゃね?大丈夫なのか、それ。」



 阿伏兎は彼女の手に巻かれたギブスを見て、一応心配する。



「全治2,3週間って所かな、安静ですよ。」



 医務室に雇われている医師の業円がに念を押すように言う。



「え。仕事は?」

「左手でどうぞ。」



 怪我としてはたいしたことはない。ただし、にとっては大問題だろう。は幸い刀に関しては両方で扱えるようにしてあるため問題はない、ただ、字を書くのは右手のみだ。

 一瞬能面のような顔で考え込んで、は口を開いた。



「え、それは仕事できないから困るよ。…安静って、なんだったっけ?」

「貴方も医師免許持ってますよね!?」



 診断が、というよりは安静にしろと言われたことが不本意だったの反論に、業円が容赦なく突っ込みを入れる。それを眺めていた神威は小さく息を吐いて、の肩を叩いた。



「仕事禁止。少なくとも1週間は休みで。」



 もともとは仕事をしすぎの気がある。丁度良い機会だし、1週間ぐらい休みを取ってのんびりするのが良いだろう。最近では第七師団も完全に団長の神威の下統率がとれているし、一週間ぐらい放って置いても何の問題もない。金銭的にも恵まれている。

 安易に神威はそう思ったが、はぶんぶんと首を横に振った。



「そんなの無理だよ。2週間後には第一師団の視察控えてるんだよ?」

「2週間だったら治ってるじゃないか。それに2週間後くらいっておまえの誕生日だろ?前倒しして誕生日休暇で良いじゃないか。」

「誕生日?そうだっけ?それよりも、用意はどうするの?」

「なんの?おまえの誕生日?」

「違う!!言ったでしょ?第一師団の視察!」



 2週間後、第七師団は元老の命令で第一師団の視察を命じられている。どうやら第一師団にきな臭い動きがあるというのだ。そのための手続きやら用意、第七師団と第一師団の母艦の連結などの関係で、仕事は山積みだ。

 元老の命令であるため必要経費は書類さえあれば支払ってもらえるので、手続きは重要である。



「そんなの、阿伏兎がやれば良いじゃん。ね?」




 にっこりと神威は息子を抱いたまま阿伏兎に目を向ける。突然矢面に立たされた阿伏兎は一瞬凍り付いて、いやっと一度首を横に振った。




「あんなぁ、俺、の半10分の1の速度でも仕事できねぇぜ。」

「死ぬ気でやれば出来るよ。っていうかやれヨ。」




 まさに無理難題。ただここで断れば暴力沙汰になることを理解している阿伏兎は、口元だけ引きつった笑みを浮かべ、汗をだらだら流しながら、目をそらす。



「…まま、だめ?」



 神威の腕に抱かれて大人たちの会話を見守っていた東は僅かに目尻を下げて丸い瞳で言う。



「え?何が?」




 はまだ言葉のつたない東の言っていることがわからず、首を傾げる。神威は息子をじっと見下ろしていたが、片手でくしゃっと東の黒い髪を撫でた。



「仕事は出来ないネ」

「ま、まだ決まったわけじゃないよ。そんなの困る!」



 は必死で神威に反論し、言いつのる。

 例えが動かず指示を出し、副官をフルで動かしたとしても、阿伏兎に出来る仕事量というのはの副官以下で、を埋めるほどの量の仕事をこなすことは徹夜でも出来ない。それくらいにはは優秀なのだ。



「人、雇えヨ。」

「第七師団なんかにそんな人は来ません!」

「おまえはいるのに?」

「神威がいなかったら雇われてないよ。」

「あはは、俺のおかげだって。良かったね。阿伏兎。」

「話の流れが意味わかんねぇよ!」



 突然自分の手柄を自慢するように話を振られても、阿伏兎からして見れば意味がわからないし、自分にとって何のメリットもない。には確かに何度か助けられたが、日頃の扱いは荒いので、何分素直に良いこととは考えられなかった。



「ひとまず、仕事は大切でしょ!」

「駄目っていったら駄目。団長命令。それに阿伏兎、出来るよ、ネ?」



 神威はにっこりと笑って、殺意まみれ貼り付けたような円形の目を、こちらに向ける。阿伏兎は背中に冷たい汗が流れるのを感じて、一瞬固まったが、頷くしか道は残されていなかった。



「いや、無理でしょ。」



 は阿伏兎が頷いても信用できないらしく、言う。だが、神威はこの話は終わりとでも言うように片手をひらひらさせて、「どこに行こうか、」と東に笑った。



「え、本当に休み取る気なの?」

「だからそう言ってるじゃないか。丁度、この星は飯もまずくないし、安全なんだろ?行こうよ。」

「ひとりで行けよ。こっちは忙しい…」

「おまえも行くんだよ。家族サービスしろヨ。」




 神威はに笑って、「じゃなかったら、骨折増えるよ。」と付け足した。

 片手でも刀は扱えるが、やはり鞘から抜く居合いなどを得意としているとしては右手がやられると戦力半減、今の状態では神威に抵抗できない。今の状態のを本気で襲ってくると言うことはないだろうが、自分のやりたいことを通すためには、骨ぐらい折る。



「むい、ままみたい。」



 ぼそっと東が小さく言う。



「団長が、ママ?」



 阿伏兎は想像が全く出来ず、ぽかんと口を開けた。

 確かに書類仕事ばかりで実母であるは食事など最低限以外、東をネグレクト気味だ。それに対して時間のある神威が面倒を見ていることが多い。ただ、神威が母親のようだと言われても、日頃戦っている姿も、彼の荒い子供の面倒の見方も、百歩譲って父親っぽいか兄っぽいくらいで、断じて母親ではない。



「そ。てれび。パパもいっしょにいきましょーよ!おれはいそがしいんだよ!ちょっとはかぞくさーびすかんがえてよー!」



 一体どんなドラマを見ているのか、台詞をそのまま覚えているらしい。要するに東は、今の神威との会話が、ドラマに出てきた夫婦の会話とよく似ているが、神威が言っていることはドラマでは母親が言うことだと言いたいのだ。



「あー、んでは家庭を顧みない父親?はー、子供ってのはこんくらいの年にもなりゃ、大人の事情をよく見てるもんだねぇ。」




 阿伏兎は感心したように顎に手を当ててふむ、と頷く。



「…」



 は息子にまで指摘されて言葉がないのか、ばつが悪そうに視線をそらした。

 変な沈黙が部屋に落ちる。いつもは歓声を上げたりする東が静かで、阿伏兎もそんな彼の旋毛を眺めて少し不思議に思う。すると、東が抱いている神威の方が視線に気づき、阿伏兎の方をその青い瞳で見上げてきた。



「存外、こたえてるんだよ。」



 短い一言に、阿伏兎は一瞬どういう意味かわからなかった。

 答えている、応えている、堪えている、なにに?と考えて、神威を改めて見ると、彼は少し沈んだ表情をしているの右手に視線を向けた。

 どうやら東が先ほどから静かなどは、自分のやらかしたことで、母親が怪我をしたことに関して、悪いと思っているようだ。ただ素直に謝ることが出来ないらしい。恐らく、が子供に対して距離感を感じているように、子供もまた同じように距離感を感じているのだ。

 神威が家族サービスをしろなんて言っているのも、何も彼女を休ませたいと言うことだけではない。



「2,3日だったらどうにかこうにか適当にすらぁ。」




 阿伏兎は自分の髪をがしがしとかきまわして、ため息交じりにに言う。




「え?出来るわけないでしょ。安請け合いしないでよ、お金の問題なんだから。」

「だがなぁ、困ってねぇんだろ?」



 が第七師団の会計を受け持つようになってから、健康保険やら武器、食事、生命保険など福利厚生もすばらしく優れた物になったが、無駄な出費が減ったおかげで、全体の会計は黒字のはずだ。別に手続きをしてまで元老からお金を取り返す必要はないのではないだろうか。




「…」




 は即答を避け、じっと阿伏兎の顔を眺める。



「なんだよ。」

「お金は蓄えておいたほうが良いでしょ?だから駄目なんだよ。」

「うっせーよ!賢いやつは違いますねーこんちくしょー。」



 阿伏兎は馬鹿にされたのがわかって、むっとして文句を言う。




「だからどっちも駄目なんだよ。」



 ぼそりと神威は言って、宥めるように東を揺さぶった。






子供の主張