『おまえも行くのか、』



 少し困ったような、いつもの顔をして義父はそう言った。諦めたような、悟ったようなそんな表情。幼い頃から見慣れたその顔を、いつも通り見上げて、明るく告げたのを覚えている。

 そう、いつも通りだった。



『うん!お兄と晋助も、小太郎もいるから、大丈夫だよ。』



 何度この言葉を繰り返して、自分のやりたいことを押し通してきただろう。

 女が普通はしない武術、芸事、学問。やりたいと口にしたことに、彼が表立って反対したことはなかった。何だってやらせてくれた。兄と一緒に行きたがる幼い妹を、危ないからと止めたことはなかった。自分の考えや慣習を押しつけたことはなかった。

 松陽に頼まれた養女だからか、それとも他に理由があったのか。物言いたげでも、いつも何も言わなかった。

 僅かに潤んだ深い漆黒の色合いの瞳は、いつも通りの言葉を繰り返すを、じっと見ていた。

 大人であった彼は知っていた。兄や幼馴染みたちと行く道が、いつものように小さな苦難や悲しみではすまないことも、たくさんの死を伴うものであることも、恐らく、師を取り戻すのは不可能であることも。そして何よりも、無邪気ながこの道の本来の意味をわかっていないことも。

 言いたいたくさんの言葉の代わりに、彼はに一振りの刀を差しだした。



『持って行きなさい。』



 町奉行として帯刀を許されていた彼は、元はこの地の出身ではなく、江戸からやってきたという。この町に溶け込むため、現地の人とよく話し、ふれあい、時には慈善事業を行って、努力して、彼はこの町で尊敬される立場になった。

 本当ならばただの養女であるを村の人々が大切にするのも、町奉行坂田右衛門の娘だからだ。

 この町で過ごす限り、彼の身分に、地位に、思いに、穏やかさに、は確かに守られていた。しかし、この町を出れば、彼がを守ることは出来ない。



『これは、おまえを守る刀だ。』



 腰の刀をそのままに突き出して、真剣をもらったことなどなく、躊躇うの小さな手に有無言わさずに持たせる。



『義父上?わたし、すぐに帰ってくるよ。』



 ことの重大さなど何もわかっていないには、彼が何故そんなに物言いたげな顔をしているのか、真剣を突き出す手が震えているのかがわからなかった。



『良いから持って行きなさい。』



 止めても無駄だと彼は知っていた。自分がもうを守れないと知っていた。全部わかっていて、だからこそ、義理の娘に刀を託した。刀に願いを賭けたその気持ち、今ならにもわかる。



『おまえが、おまえを守るために必要なものだから。』




 義父の思い。を守るための刀。たくさんの血にまみれ、戦場をともにかけ、確かにを守ってくれた。

 曲がってしまったそれは、何を示すのだろう。










 重たい瞼をゆっくりと開くと、もう見慣れてしまった天井がある。瞼と同じように体が重たい。僅かに身動ぐと、肌に直接触れるシーツと毛布が酷くくすぐったい。長い銀色の癖毛をかき上げ、緩慢な動作で身を起こそうとすると、「えいっ」という間抜けな声とともに上から突然のしかかられた。



「ぐえっ、」



 まさにカエルがつぶされたような声を上げてシーツに顔を押しつけることになる。毛布を隔てて背中に感じる重みは本気で飛び乗ってきたわけではない。の反応に満足したのか、重みはすぐになくなって、代わりに髪を撫でられた。

 血にまみれることしか、人を殺すことしか知らないというのに、彼の白い手はに随分と優しい。

 手に促されるように「神威、」と名前を呼ぶと、「ん?」と空色の青い瞳にを映して、また一度頭を撫でてくれた。



「…今、何時?」

「まだ3時だよ。俺はおまえが気絶してる間に、ひとっ風呂浴びてきた。」

「まだっていうか、もうだよね。」



 気絶というか、疲れて気を失うように眠ってしまったと言うことだろう。ただそれほど長い時間眠っていたとも思えないから、一体何時間彼につきあったのだろうと思い当たり、無駄なことを考えるのをやめた。

 無為に過ぎた時間を振り返るほど無駄なことはない。

 彼を見ると明るい色合いの髪は解かれ、まだ濡れていて、服もきちんと着ず、ズボンだけはいて、肩にタオルをかけていた。



「躰は拭いてあげたけど、風呂入る?」



 神威がベッドに手をついたせいでぎしっと音が鳴り、少し躰が下に下がる。

 風呂には入りたいと思うが、今は躰を動かすのが億劫だ。風呂まで行って髪を洗ったりするだけの気力はないし、彼に運んでもらえばその後どうなるかなんてわかりきっている。



「朝にする。でも襦袢だけはとって。」

「え?もう服着るの?目の保養させてよ。」

「…もう勘弁してよ。」



 目の保養なんてさせれば、またベッドで神威が望む楽しい性生活に逆戻りだ。明日もやることが多いのだから、それだけはなんとしても避けなければならない。まあ、もうすでに今日なのだが。

 重たい体を叱咤して、神威がベッドの下から拾ってくれた襦袢を身に纏う。紐は面倒なので襦袢に付けてあるので良かったなと思っていると、子供が親にじゃれつくように神威に抱きつかれ、そのままベッドに押し倒された。

 戯れるように軽く口づけられ、それに応える。窺うように彼を見上げると、無邪気な青い瞳が細められた。

 よしよしと子供にするように頭を撫でられれば、心地よさに眠気が溢れるようにこみ上げてくる。

 一人で子供を抱えていた時はまともに数時間眠ることも出来なかったのに、神威の傍にいるようになってからは驚くほどよく眠れる。基本的に子供が泣いていようが、神威がいる限り爆睡で、彼曰く首をはねられても気づかないだろうと言うほどだった。

 実際に宇宙船が緊急停止しても起きなかった。前科にいとまはない。



「刀、治すか買いに行かないとね。」



 神威の男性にしては少し高い声が響いている。



「…かた、な、」



 そう抑揚のない声音で返す。眠たいせいか、考えがいまいちまとまらない。


 曲がってしまった刀。自分を守るための刀。義父が娘を守ろうとして渡してくれた刀。義父が持っていた刀。首が並ぶ、義父の首。もう戻ってこない。刀について、あまりに当たり前に自分の腰にあって、きちんとその意味を考えたことがなかった。



「何、首って、」




 思案を口に出していたのか、神威が尋ねてくる声が遠い。




「ちちう、のくび…」



 攘夷戦争の終わり、家族までが粛正の憂き目に遭った。白い悪魔とまで呼ばれ、攘夷派の兵器開発の中枢を担っていたの義父は、当然ながらその対象だった。身元のわからなかった兄とは違い、はあまりにも有名すぎた。

 刀を与えられたあの日から、義父と会うことは二度となかった。ただ捕らえられ、斬首される前に行く末の危うい養子たちのために自分の資産を処分し、まとまったお金をたちに遺してくれた。

 そのおかげではこうして生きている。




「それって、刀をくれたって言う?」

「…そうわたしをまもる、…かたな、くびとみた、」




 松陽の牢を訪れる前、見た。腹に子がいるのがわかって、どうすれば良いのかわからなくて、訪れた故郷で見た。晒された首。手元に残った刀と、遺されたお金と、自分の腹にある命と。自分たちが取り戻したかった者。失った者。これから失う者。



「…あ、れ?」



 自分たちに全てを教えてくれた師を斬ろうとした自分の刀は、自分を守るために与えられたもので、もう一振りの刀は師によって大切なものを守れと与えられた刀で、今の自分は子供のために戦っているけれど、自分も守らなくちゃいけない。

 まとまらない考えは、睡魔にますます埋もれて見えなくなる。




「おまえを守る、刀、か。」




 神威の声が遠い。遠い。遠くなる。全部。ふつりと消えたのは意識だったのか、それとも奥底にしまい込んだ気持ちの表層だったのか、気づかぬままに、沈んだ。




沈む沈没