小学生の時、一度だけ毛虫をとるために上っていた塀から突き落とされたことがある。

 それは何でも出来る赤司に対して反感を持っていた男の子で、その怒りの矛先を彼といつも一緒にいて、のんびりしていて動きの遅いに向けたのだ。運動神経だけは良かったは何とか着地しようとしたが、後ろ向きに落とされればどうしようもなかった。

 頭を鋭い痛みが襲い、あたりの悲鳴。校庭の、かなり離れたところで遊んでいたであろう赤司の呆然とした面持ち。そのままは気を失い、目覚めれば白い天井が見えた。



「ここどこぉ?」




 そう言って起きた時、すでに3日たっていたらしい。

 そのまま運悪く塀の隣にあった鉄棒の土台部分のコンクリートに頭をぶつけたは、頭蓋骨骨折と脳挫傷で昏睡状態だったらしい。

 生まれて初めて見る泣きそうな顔の赤司に抱きしめられ、目覚めたを見て両親と二人の兄も安堵に力なく椅子や床に座り込んでいた。赤司の父親までいて、は目をぱちくりさせたのを覚えている。目覚めたばかりのにはよくわからなかったが、相当ひどい状態だったらしく、死も覚悟していたそうだ。

 としては寝て、起きただけだったので仕事で忙しいはずの両親と赤司の父がいることが珍しくて、今考えてもあれ一度きりだったので驚いただけだった。

 それより自分をそこに留めるように抱きしめている赤司の腕が酷く震えていて、その方が心配で、よくわからなくて、は彼が落ち着くまで彼の背中を撫でていた。



、離れちゃ駄目だよ。」



 それからだ。が離れようとすると、手を掴んで引き戻すようになったのは。 

 前もそれなりに一緒にはいたが、引き戻すようなことはなかったし、彼はの居場所を把握するだけだった。だが、この事件から赤司はが視界の中にいないと不安なようだった。

 彼の視界に入る場所ならば彼は文句を言わない。でもそれ以上離れようとすると、彼はの所まで来て、引き戻すようになった。時には「おいで、」と手招きをして呼び戻す。

 はまさに注意力散漫な子供で、何かに気をとられている間に周りの人たちがどこかに行っていて迷子になっているなんてことは珍しいことではなく、酷い時には迷子になっていることにすらも気づかず遊んでいることが多々あった。

 だが、彼の存在を忘れて遊んでいても、少し離れると彼はを連れ戻しに来る。それを繰り返しているうちに、自然とは彼の姿を視界に留めるようになった。自分の行ける範囲はそこまでだと、なんとなく理解したのだ。



「征十郎は心配性だな。とろいから、まぁ良いけど。」



 の長兄の忠煕は、そんな赤司との変化を歓迎していた。いらないことしいのがしょっちゅう生傷を作って帰ってくることを心配していたからだ。赤司にバスケを教えた張本人でもある忠煕はプロのバスケプレイヤーになるだろうと思っていた周囲の期待とは裏腹に就職したばかりだった。

 忙しくなった彼は末っ子のの面倒を見られなくなったことを存外気に負っていたらしい。




、俺からはなれるとき、いらないことしかしないし。」




 赤司はさも当たり前のように言った。

 それはある意味で正解だった。彼から離れる時、は必ず別のことに気をとられており、注意力散漫だ。怪我もすれば迷子にもなる。いつの間にか、と赤司は片時も離れず、一緒にいるようになった。

 だから、“それ”も知っていた。



「あはは、落ちた時のあいつださかったよな。」



 その少年は、を突き落としてもおとがめなしだった。

 ことが重大だったし、赤司は先生に彼がを突き落としたと言ったが、他に見ている人がおらず、自身も何が起こったかわかっていなかったし、の長期の入院などで赤司もうまく立ち回れず、結果的に誰も少年の罪を問えなかった。

 小学生だったので、罪を問えたとしても、安直な考えの延長だったとしか言えなかっただろう。

 落とされたのは間違いなかったけれど、誰が落としたかよく覚えていなかったのでのトラウマになることもなかった。でも赤司はおそらく、その時のことを、絶対に忘れなかった。否、トラウマになったのは多分、ではなく、赤司の方だったのではないかと思う。


 彼は数年前に、母親を不本意な形でなくしていた。

 人の死がどういったものなのか、賢かった赤司は一通り考えたのかもしれないし、心情に何らかの変化があったのかもしれない。事実彼と父の接点は徐々に失われ、顔を合わせたとしても義務的な会話しかしなくなっていた。

 当時はよくわからなかったが、今考えれば、このあたりから運命の歯車は狂い始めていたのだろうと思う。



 が見た時、を突き落とした少年は、二階の窓から落ちていた。

 彼は楽しそうに掃除をしていて、悪ふざけのように窓の縁に掴まって遊んでいた。不運な事故だったと思う。窓の縁を掴んでいた指が、水気につるりと滑った。その拍子に、彼は宙に放り出された。

 今でもよく覚えている、空が澄んでいて青くて、少し涼しい夏の風の入る、清々しく晴れた日だった。

 少年は悪ふざけが過ぎる方で、やんちゃだったため、そういう危ないことをよくしてみせる子だった。だから多分、を突き落とすことにためらいを覚えなかったのだろうし、同時に二階の窓の縁に外側から掴まって掃除するなんて危ないことをして見せたのだ。


 宙に投げ出された少年は、隣の窓を拭いていた赤司に手を伸ばした。

 彼が赤司の言うことを聞いたかどうかはわからないが、もしもそれが他の生徒だったら、赤司はあらかじめ危険だからやめろと注意していただろう。また、あの時、この事態をある程度予想していたであろう赤司が手を伸ばせば、彼は助かっていたかもしれない。

 でも冷たい目をした赤司は何も言わなかったし、手を伸ばさなかった。

 ただ絶対零度の緋色の目に金色の光が宿り、落ちた少年を見下ろすその唇が小さくほほえみの形を作るのをは見ていた。



「・・・っ!」



 は慌てて窓の下を見たが、後ろ向きに落ちた少年の打ち所は悪く、広がる緋色にあちこちで悲鳴が上がっていた。塀と違って二階はそれなりの高さがあるし、後ろ向きに落ちたため、どう考えても重傷のはずだ。それは少し考えるのが人より遅いでもわかった。

 どうしたら良いのかわからず、パニックになってあちこちを見回していたの腕を、窓辺から下りてきた赤司が掴む。



「無駄だよ。」



 彼の声は溶けるほどに優しい。の気が抜けるほどに柔らかくて、慈愛に満ちていた。



「これで苛む人はいない。」



 無邪気ともとれる笑みとともに、彼は言う。

 何が、誰を苛んでいたのだろうか。あの少年がを苛んだことなどない。には落とされたことも、悪意も何もかも理解できなかった。恐らくそれを理解していたのは赤司だ。だから、苛まれていたのは赤司だ。

 そして彼を苛んでいたものは、きっと少年であり、もっと奥深くに根付くもの。

 悲鳴。騒然となって外へと出て行く生徒、呆然とする先生や、他のクラスの生徒。そうした騒音が何も聞こえず、世界が二人だけのように思える。



「征、ちゃん・・・?」



 自分の知っている彼が別人のように見えた。金色に輝く緋色の瞳。それはぎらぎらとしていて炎のように揺れている。



「ね?」



 頭を優しく撫でるこの手は誰の手だろう。それはの中に生まれた小さなしこりになった。当たり前のように傍にいて、誰よりも一緒の時間を過ごした彼が、いつの間にか違うところにいたかのような、寂しさと孤独感。そして得体の知れない不安。

 そしてそれでも自分を大切にしてくれる彼への感情。



「征、くん、」



 はふたつのことに気がついた。どんなことがあろうとも、彼が自分のことを大切にしてくれることと、そして自分が彼を追い詰めてしまうかもしれないということ。



、本当に征十郎と離れて京都の中学に行くのか?」



 長兄の忠煕は、の決断を疑うように、何度もそう尋ねた。

 幼稚園、否、物心ついた時には、赤司とは一緒にいた。正直離れていた時間の方が短かったのではないかと思うほどだ。気づけば当たり前のようにの隣には彼がいて、彼の隣にはがいて、それが当たり前だった。



「うん。わかんないけど、んー、ちょっと離れた方が良いのかなって。」

「なんだそれ。」

「なんとなく。」



 感情が言葉にならないというのは、にはよくあることだ。それをよく知る長兄は、別にの曖昧な言葉を不思議には思わなかったらしい。



「まぁ、が決めたなら良いけど。何か困ったら兄様に言うんだぞ。世界の裏側からすぐに戻ってくるからな。」

「来年からにいさまたちも赴任でしょ?心配しすぎだよ。」



 はいつも通り兄に笑って見せた。

 その心配が不吉な予言になることも、すぐに赤司の隣に戻ることも、何も知らずに。






青い空と赤い日