最初何をされているのかよくわからなかった。どうして自分のことを叩いてくるのかも、無視されるのも、よくわからなかった。でも自分の持って生まれた力が、他人にとっては気持ち悪いとわかった時、どうして良いかわからなかった。
だってそれは、自分が望んだものでも、何でもなかったからだ。
「んっ」
目が覚めると、そこはすでに見慣れてしまった天井だった。白くて、小さな穴があいている。ぼんやりと見ていたら、ふっと違うものが、視界に入り込んだ。
「起きた?」
「え、あ。征、赤司くん。」
は見慣れた彼の名前を呼んだ。
いつも家では“征ちゃん”と呼んでいるが、学校ではそれはあまり良くないから“赤司くん”と呼んでいる。
「・・・わたし、また気絶した?」
「うん。」
「はー、そっかぁ。」
は目尻を下げて、身を起こした。紫原には慣れたと思ったのだが、あの発言は前の学校で常に言われていたことと一緒で、それを思い出した途端に背筋が凍ったのだ。
――――――――――――それってある意味ぃ、公然としたカンニングだよね〜
多分紫原にを貶める意図はなかっただろう。でも、それはのトラウマを思い出させるに十分だった。
「びびったぜー。突然だったし。」
「でも赤司君がとっさに受け止めてくれたので良かったです。怪我がなくて。」
「んとだよ。」
黒子と青峰が心配そうな顔で目を覚ましたを見る。
ふたりはベッドの近くにあるテーブルで勉強をしているらしかった。黒子の成績は普通らしいが、青峰の成績は相当酷いらしく、提出物も出さないので、壊滅的だと黒子から聞いていた。テスト一週間前でどこまで出来るかはわからないが、欠点を免れるためにも今が重要な時期だった。
「もう少し寝ていたらどうだ?顔色が良くない。」
赤司がじっとの表情を見ていたが、ぽんぽんと軽く頭を叩く。
「ごめん。みんなわたしが起きるの待っててくれたんだね。」
「んなことより、おまえまだ、寝とけよ。おまえ顔色ゾンビみてぇ。」
「日サロに行ったような人に言われたくないと思います。」
「おい!テツ!?」
青峰は青筋を立てて黒子を怒鳴るが、彼は相変わらず涼しげな顔で立ち上がり、ベッドの傍にある椅子に座った。綺麗な丸みを帯びた瞳が、真っ正面からをとらえる。だが別に最初から、は黒子のことだけは怖くなかった。
彼は存在感がないのだ。
喜怒哀楽の激しい人は、存在感がある。それは正の感情の時もあるし、負の感情の時もある。だが総じて、喜怒哀楽の激しい人はそのどちらもの比重が大きい。だからはそう言った人が怖い。でも彼は存在感がないから、黒子のことは平気だった。
「青峰くんは成績が悪いので、勉強しないといけませんし、赤司君が僕らに君が起きるまでの間、勉強を教えてくれましたから大丈夫ですよ。」
黒子は迷惑をかけたとしょげるを慰める。
「ほんと?」
「はい。」
「そっか。普通は勉強しなくちゃだもんね。」
は目尻を下げて、小さく細い息を吐く。
幼い頃から、は勉強をしたことがない。本を見ていることはあったが、見ると言うことは同時ににとっては記憶することと同義だ。だから勉強と言うことをしたことがないし、教師もテストが出来ているので誰も、が何も理解しておらず、とけないということがわからなかった。
というか、ですらも自分が人と違うことがわかっていなかったし、それがわかるほどは賢くなかった。今思い出せば兄たちはすでにの兆候に気づいていたのか、勉強のやり方について何度も話していたが、にはやっぱりそれもよくわからなかった。
いつも赤司が庇ってくれていたから、自分の記憶力が特別だと言うことを知らなかった。彼が目立っていたため、後ろにいるが目立つこともなかったからだ。
やっかみを受けるのはいつも彼、そして彼はそれを受け止めるだけの強さがあった。
「・・・」
じっと少し離れたテーブルで彼らがやっている問題が目に入る。普通の人はそれを読んで、理解して、解いていくのだという。でも、が考えるのは、その文字情報と同じものはどこで見たか、ということだ。そしてその映像を思い出し、写す。
それは解いているのではなくて、頭の中でカンニングしているのと同じだ。
またテスト勉強をする人々と違って、は本を覚えることはあっても、勉強することは一度もなかった。勉強の仕方もわからない。分かち合えない。だから、他人は理解できないのだ。
「?気分が悪いのか?」
黙り込んでいるに、赤司は真剣な顔で尋ねる。
「うぅん。大丈夫。なんでもない。」
は首を横に振って、小さく笑って返した。彼は何かを言おうとしていたが、言いにくかったのか口を噤んで、僅かに目尻を下げる。目の前に線が引かれているように、踏み込むことを拒む溝がある。それは赤司のものであり、同時にのものでもあった。
一年の間に、しかれた線は、のトラウマ、そして赤司の罪。
しかし、それを踏み越えたのは、意外なことにそのやりとりを黙ってみていた黒子だった。彼は静かに口を開く。
「紫原君が、怖かったんですか?」
「え?」
「わかりました。」
黒子はの予想外の質問をされた、という素直な反応から、紫原自身が怖いわけではないと納得したのか、あごを引く。
最近紫原の存在感には慣れつつあったし、何もしてこないとわかっていたので、気絶しなくなっていた。だが、紫原が言葉を口にした途端、は気絶した。要するに常にある彼の圧迫感ではなく、彼の発言が引き金だったのだ。
理由は、彼女が口に出さなかったとしても簡単に想像できる。
彼女の気絶や対人恐怖症の原因となったトラウマとなったいじめの時に、同じ、ないしは似たことを言われたことがあるということだ。
「・・・」
は目尻を下げ、俯く。黒子の顔を見ることが出来ない。いつの間にか手が小刻みに震えていた。
――――――――――――――おまえのそれはカンニングじゃん!ふざけんなよ!!
髪の毛を引っ張り、叩かれながら言われたことを覚えている。彼は努力していたのだろう。でも、努力が届かなかった時、それは怒りに変わった。生まれ持った才能に勝てないとわかった時の絶望感は、誰もが理解する物だ。
でも、きっかけはきっと、それだけではない。
――――――――――――――おまえのせいだ、見てた癖に、覚えてないわけねぇだろ、なあ・・・
冷たい瞳が追いかけてくる。どこにいたって、追ってくる。彼にとって、その人はきっと大切な人で、自分にとって赤司は大切な人で。だから、だから、知らない。覚えていない。わからない。知っていてはならない。言ってはならない。こんな力なんて、いらなかったのだ。誰にも必要ない物だったのだと、すべてが自分を責めてくる。
「すいません。嫌なことを聞いてしまって。」
物思いにふけっていると、黒子がつぶらな丸い瞳に悲しげな色を宿らせ、ぺこりと頭を下げる。素直に頭を下げられても、悲しい気持ちは変わらないし、なんて答えたら良いのかもわからない。
だが、彼の次の言葉に、つられるように顔を上げる。
「口に出来るようになったら、教えてください。」
黒子は真剣な顔で、の手を握ってきた。その温かさと、の弱さを許す柔らかな言葉に、震えが止まる。
「ひとりで抱えるのは、辛いでしょう?」
まだ声は出ない。それでも、少しだけ、勇気をもらった気がした。
小さな励まし