家に戻る頃には、すでに8時を過ぎていた。
食事は適当に帰りに食べたため、部屋に戻って着替えると、ひとまずお茶でも飲もうとはリビングに向かった。赤司も同じことを思ったのか、ソファーに座り、テレビを見ている。は彼の隣に座って、マグカップを両手で持った。
柔らかな光に満たされ、ソファーは柔らかくて、酷くほっとする。マグカップを持つ手は震えていたが、芯から冷えていくような、酷い言葉に貫かれたときのような感覚は、もうなかった。
―――――――――――でも、僕は今のさんのことが大好きですよ
黒子の言葉が柔らかくを包む。
普通の他人になりたいと言ったに、彼はそう言った。それに青峰や黄瀬も頷いてくれて、今ので十分だと言ってくれた。今でもいじめを思い出せば震えるし、普通になりたいと思うのは本当だ。でも、彼らが今ので良いと言ってくれる気持ちは、とても嬉しいし、ほっとする。
ただ、ふっとよぎるのは山川の言葉だ。
―――――――――――本当に化け物みたいに気持ち悪いのに、そいつ庇うなんてよくやるわ。
を庇った赤司に、彼はそう言って笑った。
栖鳳学園にいた時、の記憶力を皆がいつも気持ち悪いと言っていた。そのを、幼い頃から赤司は庇ってくれている。赤司も本当はのことを気持ち悪いと思っているのではないだろうか、そう思うとは消えてしまいたくなる。
小学生の時も、いじめの問題も、対人恐怖症の時も、今も、いつも赤司は自分を庇ってきてくれた。帝光中学のバスケ部でがうまくいっている理由も、赤司がきちんとの対人恐怖症や記憶力のことをみんなに話してくれたからだ。
本当は鬱陶しいんじゃないんだろうか。
「、零すぞ。」
いつの間にか赤司がの震える手に握られているマグカップを取り上げようと手を伸ばしていた。が驚いてマグカップから手を離すと、それを赤司はソファーの前にあるローテーブルの上に置く。
揺れている茶色い紅茶の液体を見ていたに、大きな手が伸びてきて、気づけば赤司に抱きしめられていた。
「よく頑張ったな。」
優しく背中を撫でられれば、安心感に勝手に涙が出た。
本当は栖鳳学園の部員がいるところなんかに行きたくなかった。暴力も受けていたから、根強い恐怖も残っている。やはり山川に凄まれれば前の恐怖を思い出して気絶もしてしまった。でも、それでもは部活に行った。
「征、ちゃん、」
は掠れた声を上げて、下から赤司を見上げる。優しい赤い瞳はゆったりと細められていて、少し悲しそうだった。
「ごめんなさい、」
はぎゅっと赤司の服を握る。
「・・・どうして謝るんだ?」
「だって、庇ってもらって、ばっかり、」
に出来ることなんてほとんどないのに、彼はを庇ってくれる。今日だって試合で忙しいのに気絶したのために保健室に来てくれた。彼がいなければは絶対に、いじめを主導した山川がいる試合会場の体育館に戻れなかったと思う。
「いつ、いつも、わたし、気持ち悪いのに、庇ってくれて、」
その先が言葉にならなかった。ちゃんと謝らなくてはならないのに、言葉が掠れて詰まる。代わりにあふれてきたのは涙だけだった。赤司の顔を見ることも出来ずに俯けば、少し身体が離された。
あ、呆れられちゃった。
鼻をすすって、あふれてくる涙を手で拭っていると、そっと頬に手が添えられる。上を向きたくなくて、こんなぐしゃぐしゃの顔など見せたくなくて、その手に抗うように首を振ったが、赤司は許してなどくれない。
「、」
唇が耳元に寄せられる。吐息が耳にかかってぞくりとした。頭がくらくらする。
「俺がいつ、を気持ち悪いなんて言ったんだ。そんなこと本当に思ってると思うのか。」
少し怒ったような低い声で、言われる。
「・・・い、言って、ない、けど・・・でも、」
小学校の時からもそうだったが、助けてもらってばかりだ。小さい頃からは何も出来ないのに、赤司に守ってもらって、助けてもらって、はそうやって生きてきた。そしてまた、こうやって迷惑をかけている。
「、俺は今日至極調子が悪かった。」
の記憶の中にある赤司の動きを統計しても、今日の彼の試合はあまり良い内容ではなかった。基礎練習もミスが多かったし、いつもの冷静沈着な彼とは思えない。
「違うとか言ったが、2試合目の不調は完璧にのせいだ。」
赤司が眉を寄せると、はますます申し訳なくて俯いた。
は二試合目の赤司を知らない。2試合目、は保健室で眠っていて、ベンチは愚か、体育館にすらもいなかった。だが虹村のは話では僅差で競り勝ったが、あまり調子は良くなかったようだった。それは赤司も同じだったのだろう。
どうしてもがいつも傍にいるため、いじめの問題などが出てくれば気が散るのは当然だ。それに気絶までしたのだから、他人でも心配になる。
「・・・ごめん・・・ごめん、なさい、」
情けなくて、悲しくて、一緒にいては駄目だと言われているようで、涙があふれて止まらない。でも、もうには他に居場所なんてないし、どこに行けば良いのかわからない。
無理矢理目尻をこすると、その手を止められた。
「がいなかったせいだ。」
赤司が大きなため息とともに言葉を吐き出し、代わりに傷つけないように優しく赤司の指が目尻をなぞって涙を拭う。その手は温かくて優しくて、を酷く安心させるものだった。
「守ってやる。何があっても。」
言葉に促されるように顔を上げると、そこには決然とした強さを持つ赤い瞳がある。その瞳が、に自分を信じろと告げる。
「だから、傍にいてくれ。」
縋るような、請うような言葉に、は驚いて目を見張った。そしてぐっと唇を引き結ぶ。
今も昔も、にとって一番安心できるのは赤司の傍だ。彼の隣にいれば、いつでもは安心できるし、ほっとする。彼が傍にいて欲しいと言ってくれるだけで、は嬉しくて、きっと何があったとしても、彼の隣に立とうとするだろう。
多分、気絶したのは、本当に怖かったのは、山川の言葉なんかではない。
「征、ちゃん、・・・わたし、嫌い、じゃない・・・?」
は目尻を下げて、赤司の服を握る。
栖鳳の生徒たちに嫌われていたとしても、もうどうだって良い。でも、赤司がもしもを鬱陶しいと思っていて、嫌っていたら、はきっと消えてしまうしかなくなる。それが怖くて、怖くてたまらなかったのだ。
「・・・まだそんなくだらないことを言うのか、」
赤司が言って、の額に手を伸ばす。
「っ!」
額に受けた衝撃に、は額を押さえて声にならない悲鳴を上げた。
「わかったのか?わからないのか?」
赤司が確認するように問う。
「・・・わかったけど、痛い・・・」
は言いながら、赤司に抱きついて、彼の胸に頬を押しつける。
一緒にいなければ、安心できない。それを感じているのは、自分だけではないのかも知れない。彼が傍にいてくれるなら、は大丈夫だ。そう、本当に心から思えた。
傍にいる覚悟