近衛は名門・近衛家の本家当主の娘として生を受けた。

 十以上年の離れた兄が二人おり、末っ子でのんびりと何も強制されずに育った。父は典型的な人の良いお坊ちゃんでのんびりしており、母は商社出身のやり手だったが、どちらも年がとってから出来た子供であるを溺愛していた。

 は、幼い頃から少し不思議な子で、記憶力がずば抜けて良く、神童と言われた天才だったが、本人には別になんのプレッシャーも、感覚もなく、ただ楽しく日々を過ごしていた。頭が良い兄が二人いたため、それほど優れているべき必要性がなかったからだ。


 赤司征十郎は同じく名門・赤司家の嫡男として生まれた。

 一人っ子で、すべてにおいてトップを求める父親と優しい母親に育てられた。父親は名門の出身と言うだけでなくやり手で、赤司の母は近衛家の分家の出身だった。

 征十郎は幼い頃から周りがよく見える子供で、何をやらせてもだいたい賢かったし、賢くあることを求められていた。赤司家の嫡男として常に優れた存在であらなければならず、ありとあらゆる習い事をさせられると同時に、それで一番をとることを求められていた。


 そしてその期待にこたえてきた。

 幼い頃のふたりに男女なんて関係はなく、お嬢さん育ちでとろくてのんびりしていると、聡い子供でしっかりしている赤司は、赤司の家で習い事をさせられるにしてもの家に講師が呼ばれるにしても、どこに行くにもセットだった。

 すべてを淡々とこなす赤司に対しては興味のあること以外やらず、それを許されていたため、赤司のしているものを見ていることの方が多かった。とはいえ、ひたすら習い事や勉強を押しつけられていた赤司にとって、は傍にいる気楽な存在。まさに空気そのものだった。

 またにとっても彼は当たり前のように存在する、例えるなら少し毛色の違う双子のような感覚で、特別な才能を持つにとって彼の隣にいることは楽で、大抵のことは一緒に出来た。それだけの能力がにはあったと言っても過言ではない。


 お互いにお互いのことは何でも知っている。


 中学に上がるまで、おそらく一緒に過ごしていない時間の方が少なかったくらい。だいたい赤司が傍にいて、をフォローしていたため、ふたりでいれば何も問題は起きなかったし、は赤司とともにいつもクラスの中心にいた。

 小学校高学年にさしかかる頃、川上という少年が、にちょっかいを出すようになった。





「いたい、」




 が川上に最初に叩かれたのは、何故だったかよくわからない。突然のことだったので目をぱちくりさせて瞬間泣くことすら出来なかったのを覚えている。すぐにそれを見ていた赤司がやってきて、を庇って怒り、教師に言い、川上は担任に殴られていた。


 なのに、彼はそうして時々を叩いたり、物を隠したり、そういう些細なことをするようになった。

 多分、川上がにちょっかいを出した原因は、高学年にさしかかって、彼がを女として意識し始めたからだった。要するに彼は幼いながら、のことが好きだったわけだが、はそんなこと全く気づかなかった。

 は叩かれても躰が小さくやり返すことも出来ず、ノートや教科書を隠されてもどうして良いかわからず、赤司が代わりに先生に言ったり、ノートや教科書を貸してくれたりと対応してくれていたように思う。そのため自然と川上は赤司ともめることが多くなっていた。

 川上はと関わりを持ちたかったが、結果的に赤司に跳ね返される。その苛立ちをたまたま塀を上っていたを突き落とすという形で示した。それがどれほど危険な行為か、まだ小学生の彼には理解できていなかった。




「・・・え、」




 は後ろ向きに落とされたため、彼の表情が僅かに見えた。すべてがスローモーションで、空が青くて、木漏れ日が揺れていたことを覚えている。川上は酷く動揺していて、泣きそうだったし、酷く困惑しているのがすぐに見て取れた。




!」
 



 赤司が血の気の引いた顔で叫んでいたのを覚えている。後のことを、はもう何も覚えていない。











 お互いにお互いが誰よりも大切な存在で、でもそれを理解することも出来ないくらい、傍にいた。




、起きて、おきろ、起きて、」




 泣きそうに震えた声が、ずっと聞こえていた気がする。

 幸いは頭蓋骨骨折と脳挫傷で意識不明の重体だったが、一命を取り留め、三日後には意識を取り戻した。赤司はの意識のない間学校すらも休んでいたと言うが、意識を取り戻してからも退院するまで片時も傍を離れず、周囲が気をもんだほどだった。

 後遺症もなくは学校に戻ったが、赤司はそれからを自分の視界から離れたところに置かなくなり、少し離れると呼び戻すようになった。

 そしてもう一つ。





「川上君と一緒はいやです。を叩くし、突き落としたりするから。」





 赤司はグループを組まされたりする時、川上と一緒になるのを嫌がるようになった。

 教師たちもうすうすを突き落としたのが川上だと言うことに気づいていたが、幼い故に川上を公で断罪することも出来ず、困っていたし、必ず赤司のグループにはがいて、だからに対する配慮だと教師たちも納得していた。




も怖いよな。」




 赤司はに尋ねたが、はよくわからず首を傾げるしかなかった。

 突き落とされたと言っても、いまいちにはそこに含まれると想定される悪意がよくわからなかったし、彼にそこまでの悪気がないことも何となくわかっていた。正直眠っていただけなのでことの重要性もわからないので、別にそれほどは彼に対して悪い印象はなかった。

 だが、赤司は違っていた。

 彼は聡い子供で、彼がやったことの意味を痛いほどに理解していた。そのため鮮烈に川上を嫌ったし、を傷つけたと言うことがどうしても許せなかった。だから赤司はその影響力で周囲の人を巻き込んで、いつの間にか川上はクラスの中で孤立していった。




「なんであいつを仲間はずれにするんだよ!」




 隣のクラスの山川がそう言って赤司相手に怒鳴り混んできたのは、夏休みの林間学校の班分けが終わったくらいの頃だった。は相変わらず赤司と一緒で、赤司は川上と出席番号上同じ班だったが、それを拒否した。

 山川も川上もミニバスで赤司と同じチームで、山川と川上とは随分と仲が良いようだった。もしかするとと赤司のように、幼馴染み同士だったのかも知れない。




「別にしてない。俺はがいるから同じ班は嫌だと言っただけだ。」



 赤司の言葉は非常に端的だったが、事実だった。

 赤司は川上と同じ班になるのを、同じ班にがいるし、怖がることを配慮して嫌だと言っただけで、それ以上は言わなかった。だが、クラスの人間は学級委員で、影響力のある赤司が拒否したことで、ほぼ半数以上が川上と一緒になることを嫌がった。

 赤司の拒否は正当な理由があり、教師も川上がに手を出すことを知っていたので、文句も言えなかったし、彼がしたのはそれだけだったが、その影響は様々な場所に波及していた。

 クラスでそういったことがあれば赤司は止めただろう。だが、川上に限って赤司はそれをせず、むしろ仲間はずれを助長させていた。赤司は自分の影響力をすでに小学生の頃には知っていた。だが多分、まだどの程度の力が自分にあるのかは探っていたと思う。

 ただ川上はにちょっかいを出すことをやめなかった。







「また川上君がちゃんを叩いた!」




 クラスメイトの女の子が悲鳴のように叫んで先生に告げ口していたのは、昼過ぎのことだった。たまたま赤司が先生から呼び出され、が遊びに外に出ていた時のことだった。赤司はほとんどから離れなかったが、少しの隙を狙って川上はに手を出す。

 それは今となっては恋愛感情だったのか、赤司への仕返しだったのか、よくわからない。

 ただ赤司の束縛はよりいっそう酷くなって、ミニバスの時もをコートの側に座らせていたし、それは家でも変わらず、いつの間にか毎日同じ部屋で一緒に眠るようになった。年を重ねれば離れていくというのに、逆に時間がたつごとに彼はを傍から離さなくなった。

 否、離れられなくなったというのが正しいのかも知れない。




「おいで、だめだよ。ひとりになっちゃ、」




 赤司は素っ気なく言ったが、の手を握る彼の手は震えていた。

 川上は同じミニバスでもあり、赤司についてミニバスをいつも見に行って、手伝っていたとどうしても生活圏が重なり、赤司が傍にいると言ってもたまには二人になることもある。ただ赤司はそれがどうしても許せないようだった。

 そしてそれに恐怖していた。




「征ちゃん・・・どうしたの?変だよ。」




 前から仲は良かったが、こんなに彼が自分を近くに置こうとしたことはないし、鈍感なにも彼の心境の変化は理解できた。元々誰よりも近くにいた、でもその距離を彼はもっと近くしようと、自分と同じにしようとでもしているようだった。

 もちろん成績も良いし、運動神経も良かったので、のんびりした性格さえ赤司が引っ張れば、はすぐに赤司の隣に並べる。だが、多分そういうことじゃない。




「だって、は弱いから、俺が守らなくちゃ、死んじゃうだろ。」




 赤司はの手を引っ張って、早足で歩きながら、言った。

 その言葉は守ってあげると言った上から下への庇護というよりは、赤司が何かに恐怖し、その結果そうしなければならないと思っている、そう言った追い詰められたものだった。

 はそれに何となく気づいていたが、それが何を生み出すのか、よくわからなかった。











 川上が二階の窓から後ろ向きに落ちたのをは見ていた。隣の窓を拭いていたのは赤司で、彼は川上に危ないと注意することをしなかった。

 ただにとっては赤司が川上に何をしたとしても良かったし、関係がなかった。 

 だっては川上がの傍から消えてなくなるのを、赤司がこれ以上ないほどに望んでいたのを知っているから。直接手を下したか、下さなかったかにかかわらず、その意味だけは理解していた。

 の存在は彼を追い詰め、駆り立てたのだ。一人の人間がいなくなってしまえば良いと、彼が心の底から願うほどに。



「征、くん」




 優しく自分の頭を撫でてくれる手が、彼のものであって、彼のものではないことをは知っていた。でも同時に彼のものでもある。どちらも同じものを共有する存在。手段は違えども、共有する感情は同じだ。カードの表裏によく似ている。ただとるその手段が非常に問題だった。

 だから、彼を追い詰めてはならない。


 はそれを心からひしひしと感じながら、自分の存在が彼にどんな影響を及ぼしているのか、少しだけ考えて、彼に抱きついた。いつも感じていた温もりは、いつの間にかを安心させるほどに大きくなっていて、たまらなくそこが安心できたからこそ、離れなくてはいけないと思った。

青い、遠い、近い