赤司はを突き通した川上のことが大嫌いだった。ミニバスで同じポジションだったと言うこともあるが、何よりも彼はに何かと構いたがるので嫌いだった。

 幼い頃から両親の帰りが遅く、何かと一緒だった赤司とは、赤司がミニバスに入るとは近くの図書館で大人しく本を読んで待ち、ミニバスが終わる頃に赤司とともに帰るようになっていた。ただ時々が見に来るときに、彼はを叩いたり、ちょっかいを出したりする。


 気をつけてはいたが、彼がまさかを塀の上から突き落とすとは、予想もしていなかった。

 悲鳴や生徒たちのざわめきが、酷く遠くて、何も耳に入らない。ただ一番近くにいた同級生に先生を呼びに行くように言い、駆け寄った。

 は塀の近くにあった鉄棒の根本にあったコンクリート部分に頭をぶつけていて、起こそうとした赤司の手にはべったりと血がついており、それはどくどくと溢れて真っ赤に地面を染め上げ、抱え上げた赤司の膝を濡らした。

 揺らしては駄目だとか、どうすればよいのかとか、何も考えられなかった。

 白い顔で横たわるは眠っているようにすら見えたのに、赤司の声に応えもしない。いつも必ず赤司が呼べば応えてくれていたのに。




 ――――――――――――征十郎、ちゃんを大事にするのよ、





 なくした、優しい母の声を思い出す。彼女はいつも、の鈍さやとろさに怒る赤司に、いつもそう言い聞かせていた。身体の弱い人で、でも色白で綺麗な人だった気がする。もう、おぼろげだ。表情はすでに空ろにしか覚えていないから。

 ただ、言葉では理解していたはずの死が実際には理解できず、起きない母を呼び、揺さぶったことは覚えている。




 救急車で運ばれるのにつきそい、すぐには集中治療室に入って出てこない。

 病院の冷たい廊下でひとりベンチに座って待っていると看護婦が見るに見かねて赤司にタオルを渡してくれた。それで手を洗って、血を落とした頃に、最初にやってきたのはの長兄である忠煕だった。走ってやってきた彼はベンチに部活の荷物を置くと、ねぎらうように赤司の頭を一撫でして、すぐに看護婦に状態を聞きに行った。

 そのうちの次兄と両親、そして赤司の父までやってきて、手術の終わったに付き添っていた。




「征十郎、疲れたか?」




 夜中になり、疲れ果てた顔をした忠煕が、赤司に尋ねた。

 その頃にはは集中治療室で白い服を着て、機械に繋がれて眠っているだけに見えた。ただ頭には包帯が巻かれていて、顔色は真っ白だった。機械音が規則的に響くその場所は赤司にとって悪夢のようだったが、どうしても赤司はの側から離れたくなかった。




「うぅん、傍に、いたい。」




 赤司がの小さな手を握って言うと、気持ちは伝わったのか、忠煕はそれ以上何も言わなかった。先に彼が尋ねてくれたのは、赤司としてはありがたかった。

 触った小さな手は、白くて力なくて、いつも自分の手を握っているものと同じとは思えなかった。



「征十郎、もうそろそろ。」



 父がそう言って赤司をから離そうとしたのは当然だったと思う。小学生の赤司が、夜中まで起きて、明日学校もあるのにの傍にいるのは本来ならば良くない。




「おじさんは、明日仕事もあるでしょう。帰って良いですよ。征十郎はいつも通り預かります。」

「ですがこのようなことになっては、」

「ですが、もしもということもありますし、も征十郎がいれば心強いでしょう。」



 忠煕はさらりと言って、隣にいた赤司の頭を撫でた。

 赤司家と近衛家では近衛家の方が遙かに家格が上だ。近衛家の嫡男であり、次の当主である忠煕に、父はそれ以上強く言うことが出来ない。父は何も言うことが出来ず、赤司はが目覚めるまでずっと、彼女の傍にいることが出来た。


 ただ、心は恐怖でいっぱいだった。


 その手が冷たくなっていくのを、赤司は知っている。だからずっと握って温めて、彼女がいなくなってしまわないように、不安になって、早く目覚めて欲しくて声がかれるほど名前を呼んで、でも、目覚めない彼女に絶望して。





「ここ、どこぉ?」





 間抜けな声を上げて、は三日後に目を覚ました。

 落とされたことのよくわかっていない彼女は頭蓋骨骨折と脳挫傷だったため、手術で髪の毛を剃られたことの方を気にしていて、しばらく帽子を被っていた。

 それから赤司は彼女が視界に入っていないと、不安になった。

 もしかしたらあの日のように、彼女は目を離した隙に誰かに突き通されるかも知れない。それが不安でたまらず、彼女の手を離さなくなった。

 どうしても、恐怖が消えなくて、毎日一緒の部屋で眠るようになった。震える腕をは拒まなかった。












「川上君と一緒はいやです。を叩くし、突き落としたりするから。」





 が学校に戻ってから、赤司はを突き落とした川上を徹底的に避けた。

 教師たちもうすうすを突き落としたのが彼であることに気づいていたため、赤司がそう言って拒否すると、困ったような顔をしてはいたが、何も言わなかった。




も怖いよな。」





 に赤司が尋ねると、はよくきょとんとした顔をしていた。

 突き落とされたというのに、彼女はよくその時のことを覚えておらず、相変わらずだった。ただ元々性格的に赤司に逆らうこともないので、赤司が手を引っ張ればそれにあっさりと従って、寄り添ってくれていた。

 学級委員だった赤司が彼を避けるようになると、それはいつの間にか他のクラスメイトたちも波及し、川上はあっという間に孤立することになった。いじめっ子の中には川上をいじめても赤司が止めないとわかって酷い扱いをする人間もいたが、もちろん赤司は止めなかった。

 を奪う人間なんて、いなければ良いと、本気でそう思っていた。今もその気持ちは変わっていない。




「なんであいつを仲間はずれにするんだよ!」




 隣のクラスの山川がそう言って赤司相手に怒鳴り混んできたのは、夏休みの林間学校の班分けが終わったくらいの頃だった。出席番号からだけでなく川上も同じ班だったが、それを赤司が拒否した後のことだった。

 山川も川上もミニバスで赤司と同じチームで、山川と川上とは随分と仲が良いようだった。もしかするとと赤司のように、幼馴染み同士だったのかも知れない。




「別にしてない。俺はがいるから同じ班は嫌だと言っただけだ。」




 赤司は山川にそう返した。

 それは赤司からしてみれば当たり前の権利だった。を川上を突き落としたのはクラスの中では暗黙の了解で、川上をといつもいる赤司が拒否したとしても、教師も誰も責めたりしない。がそれを行使しただけで、

 赤司の意向を気にして、クラスメイトの多くがそれに従ったのは、偶然と言うよりは赤司の人望だっただろう。

 ただ川上はにちょっかいを出すことをやめなかった。




「また川上君がちゃんを叩いた!」




 クラスメイトの女子が、教師と話していた赤司にわざわざ言いに来た。赤司がたまたま教師に呼びだされ、の元を離れた時だった。




「なんでおまえ、赤司の後ろばっかにくっついてんだよ!」




 川上はむっとした顔でそう言って、を叩いていた。のんびりしている彼女は一瞬叩かれたのがわからなかったらしいが、抜糸したばかりの頭が痛んだのか、表情を歪める。

 今思えば、彼はに淡い恋心を抱いていただけだったのかも知れない。

 だが、に害をなすものを、否、を自分から奪おうとするものを赤司はどうしても許せなかったし、怖くてたまらなかった。

 だから、早く消えて欲しいと思った。









 2階だというのに川上窓の反対側からが窓のサッシに掴まって、危ない体勢で掃除をしているのは見ていた。落ちたときのを嘲ったりしながら、他数人の悪ガキたちと話す川上が次に手をかけるサッシは、赤司が今拭いているところだった。

 そこを洗剤でぬるりと滑る雑巾で拭いたのは、心から願っていることがあったからだ。




「わっ、」




 小さな声が背後から上がって、彼の躰が宙に投げ出される。それはささやかな願いだったが、確かに狡猾で、酷くあっさりとした物だった。

 彼がこちらに手を伸ばしたことだけは覚えている。

 下で酷い悲鳴や、教室の子供たちが慌てて窓の方へ駆け寄り、呆然とする。赤司はわざわざ下を確認するようなまねはしなかったが、ただ静かに窓際から下りた。代わりに窓際に人が集まる。周りがパニックに陥る中、赤司の心は今までにないほど冷静だった。

 が突き通されてからざわついていた心は驚くほど静かになっていて、心から笑みがこぼれて、それを隠すために赤司は口元を押さえる。これで、これで、自分を追い詰めていたものは、すべて消えた。そう、本当に消えてなくなったのだ。

 心が驚くほどほっと、安堵する。これで、を奪うものは、この世から消えてなくなった。




「・・・っ!」




 が慌てたように窓の下を見下ろし、真っ青な顔で助けを求めるように辺りを見回す。赤司はの腕を掴んで、彼女に、優しく笑いかけた。



「無駄だよ。」




 塀から落ちたですらも頭蓋骨骨折と、脳挫傷で3日間生死をさまよったのだ。二階から後ろ向きに落ちて、無事で済むはずがない。赤司はそのことをこれ以上ないほどよく知っていた。




「これで苛む人はいない。」




 多分それは、彼女の苛む人ではなく、自分を苛む人だった。でも、そんなことどちらだって良い。どちらも一緒だ。彼女は自分に不可欠な物で、だから。




「ね?」




 優しく微笑んだ、その手を取った彼女は小さく震えていたような気がする。

 冷酷に、彼女を得るためにした行為に、ふと赤司は彼女に対する罪悪感を持った。そして結果的に彼女が怯えたのがわかった。だからもう一人の自分にふたをして、彼女が別の中学に行きたいと言いだしたとき、何も言わなかった。

 でも結局、行き着く先は、一緒だった。
貴方を捉える籠が欲しい