は馬鹿正直に何度も前に黄瀬を抜こうとしたわけではない。ただ、が真っ正面から彼を抜こうとしていると彼に思わせるためだ。の速度は確かに黄瀬よりも遅いし、体格的に劣るが、それでも黄瀬が完全に油断していたら足下をすくえる程度の能力はある。

 慣れてこれば、を円滑に止めるために、黄瀬はが前へ抜こうとした途端、距離をとるために後ろに下がるようになるだろうと予想した。

 それはまさに正解で、逆にはそれを利用して、彼から離れるために後ろに飛んだ。

 宙でボールを大きく放り投げてゴールを狙うことになるため彼にそれをとられないようにするための距離がいる。投げた後、手をつくだけの余裕はないのでおしりと背中をぶつけることになりそうだったが、それしか方法はないと判断した。




「なっ、」




 自分の向かってくると思っていたが後ろに飛んでボールをそのまま放り投げたことは、あまりに意外だったらしく、黄瀬は後ろへ退く体勢のまま、慌ててに手を伸ばした。だがそんなのはわかっていたことだし、遅い。

 黄瀬の手はボールを止めることは出来ず、無事ボールは宙へと放り投げられた。

 ボールに届かなかった代わりに、彼は諦めたのか、倒れそうになるの腕を掴んだ。おかげでなんとかは地面におしりでぶつかることだけは免れた。





「・・・嘘でしょ?」






 実渕が呆然とした面持ちで口元を押さえる。根武谷や葉山だけでなく、日頃表情を変えない黛や赤司ですらも、あまりに意外だったのか、ボールの行き先を目で追う。

 当てずっぽうに投げただけに見えるそのシュートは、吸い込まれるようにゴールへと入っていった。

 黄瀬のおかげで何とか体勢を立て直したはボールがちゃんとゴールに入ったのを確認してから、両手を振り上げる。




「やったああああ!!これで涼ちゃんのおごり!!!」




 高らかに勝利の声を上げる。




「・・・マジっすか。」





 黄瀬は腰に手を当てて、首を傾げて自分の後ろでぼんぼんと弾んでいるボールを見た。後ろを向いていたのでボールがどうなったのかは見えていないが、それでも音から間違いなく入ったのがわかったのだろう。




「ちゃんと抜いてくると思ったら、後ろに切り返してくるなんてなしっスわ・・・」





 それも宙での不安定な体勢のまま放ったシュートが見事にゴールに入るなど、あり得ない。あの一瞬では角度と距離を確認したのだ。しかもの腕力からして思いっきり放り投げなければ入らない距離、疲労も限界のはず、それでも彼女は的確に入れて見せた。






「入れば良いんでしょ?わーい、わーい。おごり、おごり。」





 はひょこひょこと飛び跳ねて、喜ぶ。





「何度も言わなくてもわかってるっスよ。」






 黄瀬は眉を寄せて、口をとがらせてを見た。

 汗がぼたぼたと顎を伝って気色悪い。日頃運動をしている黄瀬ですらもこうなのだ。はよく動けるものだと感心したが、突如蹴躓いたようにの膝が崩れる。




「え、」



 は自分の状態に何も気づいていなかったのか、かくんと体勢を崩した。





「ちょっ、っち!」




 慌てて黄瀬が支えるが、力はいまいち入らないらしい。自分から一本とったとは思えない、驚くほどに軽い身体は力が抜けてしまっていて、何故か黄瀬の腕にそえられた彼女の手すらも震えていた。





「あ、あれ、」




 自身も自分の状態がよくわかっていないのか、慌てたような声を上げるが、その声も掠れている。




「馬鹿が、」




 少しいつもより足音の高い赤司がやってきて、黄瀬の腕からを抱き取った。





「わっ。征くんっ、」





 は驚いたのか、声を上げたが、どうしても膝が震えて力が入らないとわかったのか、大人しく力を抜いた。赤司は無言のままを抱き上げ、荷物やブレザーの置いてあるベンチに下ろす。





「せい・・・」





 椅子に座って落ち着くと、途端に熱さと疲労がこみ上げてくる。呼吸がなかなか整わず、変な声が出た。最近運動をしていなかったというのに突然動いたからだろう。は自分の身体の変化に思いの外焦ったが、彼の対応は早い。





「誰か冷却剤と飲み物持ってないか?」






 赤司が怒りを抑えたような低い声で尋ねる。




「の、残ってるけど、」




 葉山が慌てて鞄を開き、冷却剤を渡す。黛もいくつか小さいものでしかないが、まだとけていない冷却剤を赤司に渡した。赤司はそれをタオルに包み、の足をこする。それは筋肉痛などを防ぐだけでなく、炎症を起こしかけている部位にも効果があった。

 が悲鳴を上げるかと思ったが、はその元気もないらしく、自分の身体の変化に僅かに首を傾げてから、眉を寄せる。




「あ、あれ?頭痛い、かも・・・」

「ちょっ、大丈夫なの?」





 実渕が慌ててに水を渡す。はそれを受け取って口をつけたが、呼吸がいまいち戻っていないせいか、けほけほとむせた。




「え?もしかして、俺やばいことしたっスか。」




 黄瀬が何やら真剣な顔での身体を冷やしている赤司を見て、顔色を変える。





は最近全く運動していない。玲央、の首の後ろ冷やせ。」





 赤司は冷却剤を実渕に放り投げ、言ってから、黄瀬を睨んだ。とはいえ、黄瀬を責めるのがお門違いであることも、理解していた。

 のことだ。どうせ自分の状態もわからずいつも通り黄瀬を“遊び”に誘ったのだろう。はここ数ヶ月、まともな運動をしていない。ましてや体力を使うようなことは赤司との追いかけっこくらいのもので、そんな何十分も走るようなことをしたのは、スポーツテストのシャトルラン一度きりだ。

 は運動神経が良いが、日頃運動してない人間が、楽しさだけで身体を引きずれば、身体の方がついて行かないのは当然だ。遊びに夢中になると周りのことが目に入らないところがある。身体の疲労を感情が上回っているのだ。

 身体が酷使されていることに、彼女は気づいていない。“出来る”から、“大丈夫”だと勘違いする。だが、それは別物だ。





「だから無理だと言っただろうがっ、」






 赤司はを睨んで声を荒げる。

 日頃のような遊びならば良い。だがもう限界だとわかっていたから、赤司は怒鳴りつけてでもを止めようとしたのだ。いつもを見ている赤司の目には、が精神力だけで身体を動かしているだけで、肉体的には限界であることが完全に見えていた。




「・・・ご、ごめ、楽しくて、」




 疲労のあまりぐったりして掠れた声しか出ないながらも、は目尻を下げる。

 は自分でも自分の限界に気づいていなかった。ただ、久々に黄瀬とするバスケが本当に楽しすぎて、抜けないのが悔しくて、どうしても彼に勝ちたくて、ただ本当にそれだけだ。自分のその体力がないことに、全く気づいていなかった。

 徐々に呼吸が落ち着いてくる。だがやはり彼の言うとおり足が限界だったらしく、立ち上がれる気がしないし、変に身体がほてっていた。




「びっくりした。膝崩れるなんて、立てるかな・・・」

「立てるわけがない。」





 赤司はの疑問に心底呆れたように返す。





「普通楽しさだけで気づかないもんっスか?っちらしいってか。なんて言うか。」

「だって、だって、久しぶりの感覚で、ものすごく楽しかったんだよ」




 は楽しかった先ほどの感覚を思い出してか、身体をふらふら揺らす。それは夢でも見るような弾んだ声だったが、次の瞬間、ぺちゃっと頬に冷たいものが当てられた。





、おまえはつくづく僕を怒らせたいらしい。」






 の頬に保冷剤を押しつけて、赤司が冷たい目でを見下ろす。彼を見慣れているとは言え、流石に自分にその目を向けられたのは初めてで、背筋に冷たいものが走る。





「え、えっと、征くん、・・・すごい怒ってる・・・?」

「へえ、だけが僕の怒りを感じられなかったらしい。」





 唇の端だけが上がるが、目が笑っていない。ちらりとが実渕たちを見ると、ぶんぶんと彼はすごい勢いで頷いていて、葉山と根武谷、そして黛まで顔色が真っ青だ。黄瀬を目だけで確認すると、へらっと頼りにならない笑みを浮かべ、赤司を見た方が良いよとでも言うように、視線をそちらに向けた。

 は改めて目の前にいる獅子を見つめる。




「・・・ご、ごめんなさい、」




 逃げたいけど逃げられない。ライオンの前に放り出されたウサギが首を切られるまではこんな気持ちなのかなと、心底萎縮して思った。




Einen Sprung ins Dunkle 無謀