はリビングで赤司から借りた彼のノートをぼんやりと眺める。

 中学時代、授業中眠るのはたまにだったし、は板書だけは見ていたので、一度見た物をすべて記憶できるは彼にノートを借りる必要などなかったし、借りたとしても見覚えのないところなどほとんどなかった。

 なのに今は結構眠ったり、授業に出ていなかったのか、ノートでも覚えていないところが多い。




「・・・あ、そういえば問題集も全部見てないかも。」




 はノートをぱらぱらとめくりながら、気づく。

 中学時代も特別勉強したことはなかったが、赤司といる時間が多く、彼の隣で彼が問題集を解いたりするのを眺めていたため、ある程度は覚えていた。だが今は彼の傍にいる時間自体が短く、同時にそうやって真面目に何かを見ることもなくなっていた。

 中間テストが5位だったとき、赤司は酷く悲しそうな顔をしていた。




「何が見ていなくて、何が見てるんだろ。」





 は思わず首を傾げてしまった。

 今まで適当に赤司の見ている物を見ていたら、点数がとれていた。でも今回は彼と離れている時間が多いので、違う。見ていない物が随分と多いし、ふと気づけばは、何を見れば点数がとれるのかすらもわからなかった。



『でも、征十郎は努力をして、ここまで来たの。それを否定することは出来ないのよ』




 母は穏やかな声音で、を諫めていた。

 いつもはただ単に物を記憶しているだけだ。それを赤司のように有意義に使う方法も知らないし、何を記憶するかも考えたことがない。彼の隣にいて、彼に指示された物を覚えることで周りの役に立ててきた。

 それを当たり前のように思っていたことが、多分問題だった。




、次はのやりたいことを見つけなさい。彼との思ったことは一緒かもしれない。でも、が出来ることは別だ。』




 が誠凛に行きたいと言った時、長兄はの目を見て言った。

 全中の決勝戦の時、赤司の言葉を聞いては自分がやったことを悟った。赤司の言うがままに統計を取って彼らの退屈と強者の傲慢に荷担し、楽しそうにバスケをしていた人たちを絶望でつぶした。それが自分のせいではなく、赤司のせいだというのは傲慢そのものだ。

 は彼を止めようとはしなかったし、赤司に手を貸すことをやめなかった。だから、同罪だった。




『おまえは誰かに追随しすぎだ。自分で考えろ。彼の意志はの意志ではない。」




 赤司にただ追随してきた。それによって間違いを犯したというのに、はまた今度は黒子のやりたいことに追随し、高校を選ぼうとした。だから長兄はを止めたのだ。




「でも、わたしに何が出来るんだろう。」




 黒子は自分がしたいことを、そして出来ることを考えて、誠凛に行って、今バスケをしている。ならばのしたいことは何で、出来ることは何なのだろう。

 中学に入った時、は赤司と別の中学に行った途端にいじめられ、結果的に赤司と同じ中学に転校することになった。自分に出来ることなんてそもそもあるのだろうかと、いつもは自信がない。が自分で努力し、やったことなど一つもないのだから。




、紅茶はいるか?」





 キッチンにいた赤司が尋ねる。




「あ、うん。」





 が答えると、彼はマグカップに入れた紅茶を持ってきてくれた。





「全然ページが進んでいないようだが、何を考えていたんだ?」






 どうやら彼はが何をしているか見ていたらしい。は基本的に文章を“読む”ことがなく、映像として記憶しているだけなので、だいたいざっと目を通すとすぐにページをめくることが多い。なのに同じページに留まっているので、不審に思ったのだろう。

 赤司はの隣のソファーに腰を下ろす。




「テツヤのことか?」

「んー、あってるような、違うような。」




 はぼんやりと曖昧な浮いた返事をして、小さく嘆息する。黒子のこと、というよりは、自分のことだろうが、彼が関係ないとは言えないので、イエスもノーも多分不正解だ。





「テツヤが秀徳に勝ったらしいな。」





 赤司も情報だけは聞いていたのだろう、ただその声音は淡々としていて、かつてのチームメイトの勝利を喜ぶようでも、親友の敗北を悲しむようでもない。無感情、それがふさわしい声音だった。





「・・・」





 も同じように、秀徳勝利の知らせを、見に行った黄瀬から聞いた。

 彼の声にはいつものようなテンションの高さはなかったが、染み渡るような深みとともに、何か決心のような物が含まれていた。

 黒子は自分のバスケがキセキの世代に通じない物ではない、と実際に示したのだ。自分自身で。

 なのに、はこうやって何も出来ず、積極的に協力してはいないが、それでも赤司の傍で、洛山の退屈な勝利に貢献している。それはあの全中の日と変わっていないのでないだろうか。あの日のように、泣きじゃくる日がまた来るのかも知れないと思うと、心にぽかんと穴が空いて、泣きそうな感情がこみ上げてくる。

 傍にはもう、すべてを委ねて安心できる赤司はすでになく、いつも相談できる黒子も、楽しく愚痴を聞いてくれる黄瀬も、厳しく諫めてくれる青峰も、もういない。

 ソファーの上で膝を抱えると、ぴぃっとの所にミミズクが飛んできた。




「ひよよ、」





 はミミズクの名前を呼ぶと、くるるるると返事をしてくれる。

 赤司との間にぴょんっと割り込んできたミミズクは三角座りをしているの膝頭にのると、の頬に自分の頭を押しつける。鳥の人間より遙かに高い体温を感じながら、は同じようにすりっと頬を押しつけた。




「よく懐いているな。」

「うん。わたしの一番の友達だもんね。」






 なんだかんだ言っても、実渕はバスケ部の部員だ。だからバスケの関わることでは相談などは出来ないし、彼が何となくと赤司の関係を心配しながらも、赤司に遠慮していることもわかっていた。だから、あまりそういう相談は彼のためにもしないことにしている。

 だから多分、が本当に慰めてくれるのは、今となってはこのミミズクだけだ。

 いつもはリビングのカーテンの上に止まっているが、時々こうしてが沈んでいると、下りてきてを慰めてくれる。

 の気分が少し戻ったのがわかったのか、ふわりと飛んでまた定位置に戻っていった。



「まぁ、どちらでも良い、」




 赤司がそう言って、の頬にそっと触れてくる。その手がそっと頬をなぞり、唇を指で押さえたので、は彼の赤色の瞳を恐る恐る見上げた。




「あ、征、くん?」




 は戸惑うように名前を呼ぶ。

 こういう空気は、苦手だ。には戸惑いの方が大きい。困ると言っても正しいかも知れない。どうしたらよいかわからないという感情が大きい。

 しかも熱っぽい彼の瞳は、この続きも願っている。

 最近はなぜだかわからないが、こういったことをするのが恥ずかしくてたまらない。赤司に自分の躰を見られるのが嫌なのではないが、本当に恥ずかしいだけ。それでも躰は快楽には忠実で、始まればもう赤司の手の内だ。

 いや、幼い頃からずっと、彼の手の内だ。彼に守られ、ただぼんやりと生きてきたは、彼に頼ることしかしてこなかった。




「集中、出来なさそうだな、」




 赤司はの唇に自分のそれを軽く重ねて、苦笑する。別のことを考えていることが、バレたらしい。は元々嘘をつくのは苦手だ。




「征くんと自分のことだよ。」

「ふぅん、」




 赤司の赤と橙の瞳が鋭い光を宿す。




「でも、僕にはあまり良い話ではなさそうだ。」

「え?どうして?」






 は彼の言葉の意味がわからず、目の前の赤司を見上げた。

 いつも自分に穏やかに向けられているその瞳が今はまるで油断ならない相手へ、いや以外の他人すべてに向けられているような静かで、観察するような視線に変わっていて、はびくりと肩を震わせる。だが赤司はそれに気づいたのか、僅かに目を見開くと、唐突に奥歯をかみしめ、の身体を抱き寄せた。

 その腕の強さに驚く。




「せ、せいく、」




 苦しいと思ったけれど、彼が自分の肩に顔を埋めたのを感じ、拒み切れずにも彼の背中に手を回す。

 バスケットボール選手としては驚くほどに小さいその背中に乗っかっている物に、中学時代はいつも思いをはせていた。

 だが強者として弱者をもてあそんだことで、はすでにそこに大きな感情を抱けなくなっていた。



Das Bruchstueck 破片