「・・・」
突然夕方に誠凛にやってきたと思ったら、は黒子の腕の中で声もなく泣くだけだった。
最初は青峰に黄瀬が負けたから泣いているのかと思ったら、全く理由は異なる物だったらしい。がこうして声もなく泣くのは、あの全中の決勝以来だ。赤司が関わることになると、無邪気な彼女はとことん弱い。
ただもうそろそろ離れてもらわないと、誠凛の体育館のベンチであるため、目立つ。
「あの子、なんで泣いてるんだ?」
日向が聞きにくそうに火神に尋ねる。
「い、いや、知らないッス。正直、手洗い場で突然黒子に抱きついたんで。」
黒子と火神が手洗い場に練習終わりに手を洗いに行った時に、彼女がおり、黒子にそのまま抱きついたのだ。黒子は驚いた様子もなく、ぽんぽんと頭を撫でてどうしたのか尋ねていたが、肩が震えていて、泣いているようだった。
泣き顔を見られたくないのかとそのままの体勢でベンチのある体育館まで戻って、今に至るというわけだ。ただすでにかれこれ20分はたっている。そろそろも黒子を解放してやっても良い頃ではないかと思う。
「、もしかして赤司君に怒られたんですか?」
黄瀬は桐皇と誠凛がやる前に、の統計を持ってきた。
黒子は自分の力で戦いたいからとそれを見ることをしなかった。ある意味でそれは、がまだ赤司と一緒にいるから、キセキの世代の力を借りるようで、何となく嫌だったのだと思う。そこはくだらないプライドの話で、今は関係ない。
問題は黄瀬がその統計を桐皇とやり合う時に使っていたという点だ。明らかに対策を完璧に立ててきたといった感じで、そこにはの力を知る人間がいれば、明らかにわかるほどに彼女の統計の結果がにじみ出ていた。
赤司は桐皇と海常の試合を見に来ていただろうから、赤司の目にも彼女が黄瀬に手を貸したことはわかっただろう。
「・・・ち、ちがう、ちがう、征くん、わたしが、洛山の、」
は震える声で言ったが、それ以上は言葉にしなかった。
「そう、ですか。」
多分、統計を渡したことを怒られたのならば、はこれほどに傷つかなかっただろう。
は確かに、キセキの世代のバスケを好んではいなかった。そのために、仲間と寄り添うことを思い出した黄瀬にのみ荷担したのだ。ただ、は結構義理堅い性格をしており、黄瀬に渡した統計の中には恐らく絶対に、赤司と洛山の物は入っていない。それを黒子は確信していた。
例えその方針にあわなかったとしても、にとって赤司は一番傍にいる大切な人だ。心がすれ違っていようと、楽山に行くことをあまり望んでいなかったとしても、彼と、彼のチームの情報を売り渡すようなマネを、彼女がするはずがない。
だが、赤司は、が赤司のいる洛山を裏切って、洛山の統計をも黄瀬に渡したのではないかと疑ったのだ。
「わたし、が、なんのために、」
はぽたぽたと涙をこぼして呟いた。そこに内包する感情に、黒子は気づいている。
全中の決勝が終わって、は一時誠凛に行こうとしていた。の両親は良い人で、どうしても彼女が誠凛に行こうとすれば止めはしなかっただろう。だが、がそれをしなかったと言うことは、彼女自身に覚悟が足りなかったからだ。
赤司から離れる自信がなかった。彼のバスケを完全に拒絶し、彼の敗北を、彼の敵であることを望めなかった。だから彼女は離れられなかったのだ。高校に入っても最低限の統計をし続けていたのは、そのためだろう。
本質的には赤司の敗北など望んでいない。
が自軍の統計をしなくなったのは、これ以上洛山を強くする必要性がなかったからだ。それでも相手チームの統計をしていたのは、洛山を勝ちやすくするため。他人に洛山の統計を渡せば、赤司が負ける可能性を増やすことになる。
がそんなことをするはずはなかった、そこだけはずらしていなかった。
赤司は自分が試合に出るときにが傍にいないと、昔から不調になる。今もあからさまかどうかはわからないが、それでも苛々し出すのは間違いないだろう。
なのに、は赤司の出る可能性のある公式戦に、秀徳と誠凛の合宿に行きたいからと言う理由で欠席した。赤司はそれを見て、が自分たちを見捨て、洛山の統計を敵に渡すかも知れないと思ったのだ。
確かにを信じられなかったのは赤司だが、きっかけを作ったのは、だ。
「本当に君たちは、」
黒子はため息をついて、自分の携帯電話をちらりと確認する。ちかちか点滅する光は間違いなく赤司からの物だろう。
このタイミングでがどこに行くかなんて彼はよくわかっている。
彼は昔からと黒子の関係を疑っていた。彼としてはがここにいるのは理解しているし、嫉妬を知る彼にとってそれは身を切るよりも辛いことだろう。
「は赤司君から離れたいわけではないでしょう?」
黒子はの頭を撫で、宥めるように優しい声で言う。
「だったら、そのことについても、ちゃんと話し合わなくちゃいけません。」
は根本的に赤司と別れるという感覚はないだろうが、少なくとも離れたくないはずだ。ならば、こんなところでぐずっていることに意味はなく、赤司とずれている部分のすりあわせをしなくてはならない。
確かに顔を合わせずづらいのはわかるが、そうすべきなのだ。
「でも、どうせ役に立たないもん、」
「は赤司君の役に立ちたいんですか?」
「うん。でも、あんなこと、役に立ってない、」
は全中の決勝のことを言っているのだろう。誰のためにもならない統計を積み上げて、何になるのかわからないというのがの心の根底にあるから、素直に協力しようという気になれないのだ。
「・・・征くんも、負けたら、変わってくれるのかな、征ちゃん戻ってくるかな・・・、」
の漆黒の瞳はぽつりとそれを口にしたが、自分で口にしたのに、今にも泣きそうな顔をする。
黒子は簡単にキセキの世代を倒そうと思えた。だがにとって赤司を倒すと言うことは、今まで自分を守ってきたすべてを砕くことであり、同時に大切な幼馴染みを傷つける行為でもある。今までよって立ってきた背を、敵に回す。壊す。そんなこと受けいれられる人間などいないのだ。
だから、はいつも赤司の隣に留まってしまう。
「うぅ・・・」
は三角座りで膝を抱え、自分の頬を膝に押しつける。ぽろぽろこぼれる涙は、昔を思ってか、今の悲しさ故か、黒子にはわからない。でも、彼女は赤司の隣に留まって、悲しさのまま動けないでいる。それはバスケはやめると言った、絶望した自分によく似ていた。
自分には何も出来ないと、思ってしまったあの時に。
「・・・、」
はそっとの肩を抱きしめて、軽く背中を叩く。
「昔言ったでしょう?が泣いたら、悲しいって。」
いじめの時、それを全部自分の中に閉じ込めて、我慢しようとするに、黒子は言った。彼女が泣いていたら、自分たちも悲しいから、泣かないでと。
今もその気持ちは全く変わっていない。
「泣かないで、」
黒子は小さく肩を震わせて、自分の非力さを呪う少女に、笑いかける。自分を見上げてくる漆黒の瞳は、昔とちっとも変わっていない。
「少しだけ、バスケをしていきませんか、」
黒子はの手を引っ張って、ベンチから立ち上がる。
たちの話が気になってか、まだレギュラーの日向や伊月などは練習を続けている。火神もいる。そう、黒子は一人ではない。頼るべき仲間がいて、その人たちとともに上を目指しているのだ。あの頃のようにただ一人取り残されているのではない。
そしてそれは離れていても、同じだ。
「僕は、あの時君が一緒に行ってくれなかったら、立ち直れなかった。」
黒子が言うと、ははっとする。
全中の決勝戦の後、黒子はバスケ部に行かなくなった。それはも同じで、互いに自分たちが感じた感情をどこかで共有していた。そして挫折も同じだった。それでももう逃げないと赤司に誓えたのは、と一緒に明洸中学に行けたからだ。
確かに荻原はもういなかった、でも、立ち直るきっかけをくれた。
「・・・でも、」
何も出来なかった、とは表情を歪める。
傷つけた人たちはもうバスケをやめてしまっていて、陳腐な慰めなど、彼らの心の傷を考えれば口にすることも出来なかった。
でも、黒子は拳を握りしめる。自分さえ諦めなければ、あの日もう一度立ち上がった意味も、彼女とともにあそこを訪れた意味も、ちゃんとある。
「僕らは必ず赤司君の所まで行ってみせる。」
優勝するというのは、青峰のいる桐皇に勝つと言うことだけではない。間違いなく勝ち進んでいって、赤司の率いる洛山高校とやり合うということだ。先はまだ長い。決して青峰に勝つことだけが終わりではないのだ。
「あの時、僕に勇気をくれたのは君だ、」
黒子は彼女の手を引いて笑う。
きっと黒子一人では明洸中学に行くことは出来なかった。彼女が一緒に来てくれたからだ。でも多分、逃げないと決心できた黒子と違い、はただ、自分の罪の確認に行き、それが取り返しのつかない物であると知っただけだった。
彼女は自分の傷をえぐりに行ったのだ。だから彼女は今もそこから動けていない。
でも、あそこにいたのは、彼女一人ではない。自分の罪を理解したのも、目を遠ざけていたのも、全部彼女だけではない。
「だから今度は、僕が救ってみせる、」
漆黒の瞳がまん丸に見開かれる。は今、あの日の黒子のように無力さにうちひしがれているのかも知れない。でも今度は、黒子が彼女の手を引く番だ。
「ひとまず、一緒にバスケをしていきませんか、」
楽しい居場所が、ここにある。そう教えるようにまねく黒子の手を、は涙を拭い、笑いながらとった。
そこに見えるのは昔、が確かに笑って、一緒にあったもの。でもそこには大切な人がいない、それが悲しくて、たまらなかった。
Mein Wunsch