インターハイが終われば数日の休みがある。

 東京の赤司の家に帰るのも良かったが、赤司は与えられた一週間の時間を母との思い出もある、京都のの本家で過ごすことに決めた。




「征十郎はん、ご立派になられましたねぇ。」



 長年家に仕えている女中の老婆・美子は、皺だらけの目元の皺をますます深くして赤司とを迎える。



「久しぶりです。お世話になります。」



 赤司が礼儀正しく言う後ろで、は荷物を持ったまま久しぶりの我が家にきょろきょろと落ち着かない様子を見せる。



「おひいさま、何か気になるところがあらはりますか?」

「うーん。なんか、上の壁紙張り替えた?」

「昔の布の壁紙にはりかえたんどす。粋ですやろ?」



 美子がそう言うと、は彼女を振り返って小さく頷いて見せた。




「だが本当に変わっていないな。」




 完全な洋風建築の赤司家と違い、昔ながらの京都の長屋である家は、内装こそ洋風の20世紀初頭の面影を残している場所もあるが、高い床や中庭、狭い間口が示す、典型的な伝統ある2階建ての建物だった。涼しげなすだれ、風通りの良い襖の取り払われた部屋は、クーラーがなくても心地が良い。

 重要文化財の襖に一緒に落書きをして怒られたのは良い思い出だ。


 赤司の母は家の分家出身で、この和洋折衷のの本家を好んでいた。洋風の家よりも人の距離が近いというのが、彼女の言い分で、長い休みがあると何かと赤司を連れだして、このの家で1週間ほど逗留していた。

 赤司の家に閉塞感を感じていたのは、何も赤司だけではなかったのかも知れない。

 長期休みに必ず一度、赤司が母とともにここを訪れていた頃は社交的だったの祖母も健在だったたし、忙しいとはいえ赤司の両親やの両親も集まって、演奏家を呼んでサロンを開くこともあった。こじんまりした家族的なこの空間は、団らんの場になった。

 それがなくなったのは赤司の母が亡くなり、の両親が海外に赴任してしまってからだ。そして同時に、赤司と父の距離も大きく開くことになってしまった。




「おひいさま、旦那様が着物を作るよう、言っておりましたので、昼から呉服屋を呼んでおります。」

「どうして?」

「随分と背がのびはりましたやろ。ゆきが足りません」




 の身長はここ数ヶ月で140センチ台から150センチ台に伸びたため、裾はともかく袖が足りない。浴衣なども新しく作らなければならないだろう。




「旦那様からきいてはりませんか?」




 少し気遣わしげに赤司を窺ってから、美子が尋ねる。



「なにが?」




 は美子と赤司の顔を交互に見てから、きょとんとした表情で首を傾げた。



「・・・父が、婚約の話を家に申し入れたらしい。」



 赤司はため息交じりに言う。

 赤司の父は昔からのことを気に入っていた。とはいえ、だいたい何でも赤司に続くくらいによく出来るを評価しているというのももちろんあるが、大きな理由は最大の取引先である家の娘だからだ。事業という点を考えても、良い点しかない。

 だから昔から、赤司の父は赤司とを仲良くさせようとずっと気を遣っていたし、に対してだけは弱く、と同じ中学になってから、赤司はを利用して父の申し出を断ることすらあった。

 赤司が直接との交際を父親に話したことはないが、恐らくが長兄たちに話し、それが回り回って赤司の父の耳にも入ったのだろう。先日確認の連絡があり、それに赤司は今更だと思って素っ気ないながら肯定を返した。

 どうせどうにもならないだろうと思っていたからだ。




「もちろん、義父さんはまだ早いと渋ったらしいが。」




 赤司は淡々と結論を伝えた。

 少し残念だが、当然の答えだ。名門の出身の令嬢だと言っても、このご時世、高校も出ていないうちから婚約などばかげている。気がきついの母はともかく、ぼんやりとしたの父なら押し切れると、赤司の父は思ったのかも知れないが、一番くせ者はあの穏やかなの父親の方だ。

 彼はに対して何も強制しない。彼自身もふわふわと浮いているような、浮き世離れした人で、庭の鯉の池を眺めて丸一日を過ごしたりと、色々と変人としてのエピソードがついて回るぼんやり系のお坊ちゃんに見えるが、頭の回転も速いし、賢い人だ。

 赤司とが思い合っているとは言え、赤司本人が婚約について言わず、がそれについて言及しない状態で、赤司の父の申し出を受け入れるとは思えない。



「・・・ねえ、ばあや、婚約って、なにするの?」

「おひいさまは相変わらずであらはる、少しは征十郎はんを見習って大人にならはるとよろしい、」




 長年家に代々仕えている家の出身、しかも女中頭でもある彼女の言葉は容赦がない。

 赤司家は確かに名門だが、戦後急速に成長した家で、反感も色々なところから買っている。対して家は公家系、明治時代には財閥となった家柄で、同じ日本有数の名門であっても、性質が根本的に違う。女中とはいえど、本家の息女に口出しできるほどの発言権があるのは、長らく仕える故だ。

 時代が変わってもそれは変わっていないし、主従だけではない柔らかな関係を生む。



「ほんにおひいさまには婚約には早うございます。」




 頬に手を当てて、老齢の美子はため息をつく。残念だと思いながらも、赤司も全く同意見だと思った。

 それに家は絶対に婚約を急がないだろう。赤司家と縁続きになることを、家自体は本質的にはあまり望んでいない。赤司の父が婚約を望むのは利益観念からだと理解しているだろうし、の温厚な性格からも、そう言った利益に関わる渦中に放り込まれて生きていけるとは考えていないからだ。

 そこもまた、赤司が優秀でなければならない理由でもある。彼女をそういったことに関わらせないほど、優秀でなければならない。




「で、着物は何のためにいるの?」




 は会話の流れがよくわからなかったらしく、首を傾げる。




「年始に一度旦那様が戻られ、赤司のご当主と婚約のことについて内々にお話ししたいと言うことです。」





 一応きちんとした料亭で赤司とも同席を余儀なくされる。もちろん二人で多分父親たちのお話を待つだけになるだろうし、お互い元々お奈々馴染み同士の親しい仲だが、格式がある家同士と言うこともあり、格好だけはいい加減にできない。




「ふぅん。わたしは座っておくだけだね。」




 はさらりと言った

 なんだかんだいえ、学校ではやんちゃもしていたが、令嬢だと言うだけ会って行儀に関してはたたき込まれているし、粗相をすると言うことは絶対にない。大人しくしとやかに座っている時の彼女は確かに令嬢の何ふさわしい振る舞いをしてみせる。



「よくわからないけど、おとうさまは何か言ってた?」



 は美子に尋ねる。




の好きにすれば良いとおおせでしたよ。征十郎はんに婚約についてよぅお聞きなさいませ。」



 美子はふっとのんきなにため息をついた。


「え、征くんは知ってるの?」

は何も心配しなくて良いよ。僕も父にも早すぎると言っておいた。」




 赤司は酷く困った顔をしているの背中を優しく撫でる。

 父は色々と言っていたが、赤司としてもとの婚約は早すぎると思っていた。本当は自分のものに早くしてしまいたいが、家の意向もあるし、決して簡単なことではない。せいてはし損じるという物だ。にその気がなければ、家は納得しない。



「だから、は何も心配せず、僕の隣にいれば良い。」




 赤司はすべてを閉じ込めるように、を抱きしめる。

 本当は、すぐにでも自分のものにしてしまいたいけれど、それが許されないことを赤司は理解している。他の世界なんて赤司を介してしか、知らなくて良い。そうすれば彼女に与えられる情報のすべてを赤司が精査できるし、が傷ついたり、悩んだり、困ることは何もない。



「征くん、」




 は赤司の答えるように、彼の背中に手を回す。だがその手が確かに未来への切符を掴んでいると、赤司はまだ気づいていなかった。





Die Fahrkerte