教科書がないことに気がついたのは、2学期が始まってしばらくした頃の授業中のことだった。
は記憶力が良く、見た物はすべて記憶しているため、一度記憶した物を二度見することはほとんどない。そのため基本的に教科書は全教科置いている状態で、だからこそ鞄の中はミミズクの独占状態だった。
「さん、教科書どうしたの?」
教師に言われて、ふと顔を上げる。
いつの間にか気づけば数学の時間で、ノートは一応出していたが完全に白紙、電子辞書の内容を覚えて遊んでいるところだった。
「え?」
は顔を上げ、首を傾ける。
「、教科書を出せって言われてるんだよ。」
2学期はじめの席替えで隣の席になっていた赤司が、小声で言うが、周りにも聞こえていたらしく、クスクスと笑うクラスメイトの声がする。
クラスの中で、は完全に空気扱いだ。
大抵のことをはよく聞いていないし、のんびりしている。あまりせかせか話すこともない。かといって暗いこともないのだが、赤司が傍にいてが話そうとすると仲介してしまうため、直接仲の良いクラスメイトは皆無だった。
赤司もこちらから声をかけるのが憚られるようなタイプだが、もミミズクを連れていたり、小柄で漆黒の肩までの髪、現実味のない座敷童のような、触りにくい存在になっていた。しかも運の悪いことに洛山高校は名門の家出身の学生も多く、逆にそれが皆が遠ざかる原因にもなっていた。
「あ、はい。」
は返事をして自分の机の中を見たが、教科書が何故かほとんどない。手で触れれば紙切れだけが入っていて、は思わず首を傾げる。
「ロッカーにでも持って行ったのか?」
「うぅん。使ってないよ?」
最後に見たのは明確に昨日だったと覚えている。昨晩は絶対にあったはずだ。それが指し示すところがよくわからず、赤司もの記憶力の良さは痛いほどに理解しているので、意味がわからず眉を寄せる。だが、今すべきことは理由探しではない。
「、おいで。先生、僕が見せますから、」
赤司は教師に向かって言う。それが今できる一番良い判断だ。教師は満足したように頷き、去って行く。赤司は適当に机をくっつけたが、が教科書を見る必要などないことはわかっているので、ぼんやり黒板を眺めているのを放って置いた。
もで入っていた紙切れに目をやる。何となく赤司には見せたくなかったし、彼は隣で淡々と板書をノートにとっていた。
昼休みになると忙しい赤司はすぐに生徒会だと言うことで弁当を持って、出て行った。
「、教科書のことは放課後に話そう。帰るなよ。」
釘を刺すように言われ、彼が出て行くのと入れ替わりに、実渕がやってくる。
「―、ぼんやりしてるわね。」
実渕はふにっとの柔らかそうな頬を指でつついた。それはやはり教科書のことがどうしても気になっていたからだ。
「うん、まぁね。」
は気のない返事をして、紙切れを持ったまま弁当を持って屋上へ行く。
最近邪魔されないように屋上で食事をするのが日課になっている。インターハイで優勝してからバスケ部に羨望の眼差しを向けていた人々の目はますます苛烈になった。そのため赤司の恋人とされているのことも、いつの間にか有名になっていた。
葉山や根武谷、黛や実渕と昼ご飯をともにしただったが、結局昼休みが終わっても教室に帰ることはせず、屋上で授業をサボることにした。
「なんだ、その紙切れ。」
屋上で同じように本を読んでサボっていた黛は、に尋ねる。彼女はその紙切れを開くこともなく、ただじっと見ているだけだ。しかもそれを昼休みが終わってからかれこれ20分弱ほど続けている。
彼女は元々記憶するために動いているものをじっと見ていることはあるが、止まっているものをそんな真剣な顔で何十分も見ているのは一体何故なのだろうか。
「・・・見たら記憶してしまうけど、見ない方が良いだろうと思って、でも見ない訳にもいかなくて悩んでるの。」
「誰からもらったんだよ。」
「机に教科書の代わりに入ってた。」
は深刻な顔で紙切れを見ている。漆黒の瞳は目尻が完全に下がっていて、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気だ。
「教科書の代わり?」
言っている意味がわからず、黛は首を傾げたが、黛の読書を邪魔しないとはいえ、流石にこれほど深刻な顔で居座られては、気分が悪いしこちらも気になって仕方がない。
「あ。」
黛が遠慮なく紙切れをの手から取り上げる。だがそれを開いた途端、眉を寄せた。
「・・・あ、」
はある程度予想していたのか、その表情を見て目尻を下げる。
そこにあった文字は、口に出すのもおぞましい物だった。彼女のことを疎ましいと思っている人間がいて、教科書をとるとともに、赤司に近づくなという文言とともに、口にするにも耐えられない罵詈雑言が並んでいる。
多分が一生見なくても良い物だと思った黛は、それを勝手に本のしおりにし、本を閉じる。
「教科書なくなったって意味かよ。赤司に言った方が良いぞ。」
できる限り平坦な声で、黛は言った。だが、は首を振る。
「・・・やだ。かっこわるい。」
「なんだよその子供みたいな理由。」
いじめ、と言う言葉を、黛はよく知っている。あまりに存在感がなかったため、黛が直接いじめられることは基本的に全くなかったが、いじめられていた人間が今までの学生生活でいなかったわけではない。特に男が原因なんてことはよくある話だ。
格好悪いから言いたくないとは言うが、赤司ならあっさり対処してくれるだろう。根本的に赤司のせいなのだ、このいじめは。
「あんなぁ、こういうのは最初が肝心なんだよ。」
「どうせ友達いないから、関わりないし、良いよ。」
夏休みを超えた今の時期になっても、いつもは一人でいる。それを黛も知らないわけではなかったから、黙り込んでしまった。
には全くといって良いほど友達がいない。
昼休みは赤司から逃げるために常に教室から離れていたし、それ以外の時間はすべて赤司といるため、彼女にはクラスメイトと仲良く話す時間が全く与えられなかったのだ。すでに夏休みを超えてしまえばグループに入るのは至難の業で、特に女ともなればなおさらなのだろう。
結局は2年生でバスケットボール部、女よりも女らしい実渕と一緒にいることが多かった。
「少なくとも、ひとりになるんじゃないぞ。」
黛は一応、に釘を刺す。彼女の目尻は相変わらず下がったままで、納得しているかどうかもよくわからない。
「聞いてんのか?」
「・・・うーん、」
聞いてはいるが、どうやら納得は出来ないのだ。
相変わらず1週間の半分、は部活に出てこないが、居残り練習には出てくることが多い。ただそれがある意味で問題だ。要するには学校のどこかで居残り練習まで時間をつぶしていると言うことになる。それはいじめのことを考えれば危険だ。
「おまえさ、まさかと思うけど、他にもあったりするんじゃないのか?」
黛がはっとしてに言うと、彼女はあからさまに肩を震わせた。
「・・・おまえ、」
「そ、そんなにじゃないよ、体育の授業の時に、ボール頭に当てられたりとか、そんなの、」
些細なことだし、は運動神経が良い。そのため大抵の場合そう言った物はよけられるし、女子が何かを言っても右から左に聞き流すのは得意だ。それに彼女たちは赤司のいる場所では何もしないので、教室では静かな物だった。
正直教科書がなくなったのも多分今回が初めてだ。細かい物品がなくなることは一学期の末からあったが、は元々ノートを写さないので、全く気づかなかった。
「だから、大丈夫。」
は平気そうにそう言って見せたが、手が震えていることを黛は見逃さなかった。
Der Geist 亡霊