「・・・嘘でしょ?」
実渕が呆然とした面持ちでを見つめる。根武谷も、そして黛もそれは同じで、コートを眺めていた。
昼休み、食事を終えて、葉山がを1on1に誘ったのだ。それはいつも通りで、最近はも好んでそれを受け入れるようになっていたから、別に何の問題もなかった。だが、いつもと違うと言うことは、試合を始めて3分ほどでわかった。
そしてそれは10本を終え、我に返ったと、茫然自失の葉山をコートの中に残すこととなった。
「え、あれ?」
夢中になっていたは、はっと気づいて、周りを見る。
気づけば何も考えずにゴールにシュートを放っていて、酷い疲労だけがたまっている。それは最近赤司の練習につきあい、体力をつけてきていたではあり得ないほどの疲労で、もう足を踏み出す気にもならないほどだ。
だが、何よりも膝をついた葉山と、それを見守っている実渕、根武谷、そして黛の目を見て、は図きりと心が痛んだ。
「あ、あれ?」
絶対的な壁を味わった、遠い日、全中の決勝戦で自分たちを見ていたあの目。暗くて、夢も何もなくて、完全な別世界の化け物を見るような、あの遠い目によく似ていて、は一歩後ずさる。
視界の端に白いスコア表がちかちかとかすめて、それを振り返る。
10対0と無情に描かれているそれは、今まで女と男という絶対的な力の差があったため、が天才的とは言え一定の点差が開いていたし、接戦は出来たけれど、上回ることはほとんどなかったはずだ。なのに、そこには何故か絶対的な差が存在する。
「・・・あ。」
は両手で掴んだバスケットボールを見つめる。ふつふつとわき上がる感覚が恐怖なのか、絶望なのか、期待なのか、不安なのかわからない。だがそれはどちらにしてもが味わう絶対的な、“力”だった。
は手を振り上げる。ゴールまでの距離はよくわからない。よくわからないけど、わかる。
適当に放り投げたバスケットボールは、ゴールにすっと擦ることもなく、綺麗に入っていく。それを眺めて、はそれが何を示す物なのかよくわからなかったが、バスケットボールが、いや、コートが恐ろしい物のように思えて、首を横に振った。
「!」
実渕の悲鳴のような声が名前を呼ぶが、は駆け出す。その場にいたくなくて、その声すらも振り切るように、走り出した。
勢いのままに昼休みも終わりかけ、生徒の多い教室へと入っていく。
「?」
もう教室に戻っていた赤司がに尋ねる。一瞬はたっと彼の存在に気づいて、は視線を彼に向けた。だが、漆黒の瞳を丸くしたまま逡巡して、首を横に振る。
「なんでも、ない。」
震える声でそう返して、鞄を無造作にひっくり返し、財布などはすべて放置してスマートフォンだけを手に取る。だがその手を赤司が掴んだ。
「もう、授業だ。」
赤司が言うことは最もだった。あと5分で授業が始まる。今からどこへ出て行くにしても、電話をするにしても時間がなさ過ぎる。冷静に考えれば授業後の休み時間にでもするべきだろう。
だが、そんな精神状態ではなかった。
「どいて、」
彼の手を振り払うなんてことが、過去にあっただろうか、クラスメイトが見ている前で、はその手をためらいなく弾いて、外へと駆け出す。
「!」
赤司の声が、酷く遠い。はそのまま教室を出て、馬場などもある庭から通じる私道の方へと走り出した。
―――――――――――――バスケで何かあったら、連絡してこい。
転がり込むように芝生の上に座り込んで、頭に思い浮かべたのは、自分にバスケを教えた青峰だ。わき上がるこの感覚も、何もかも、彼なら知っているはずだ。でも、は結局携帯電話に登録されているその番号に、かけることが出来なかった。
自分に向けられていた、実渕たちのあの目。絶望や憎しみ、羨望を含んだ空虚なそれを冷たく見返していた、青峰の瞳を思い出す。恐怖する。
はあそこに立ちたくない。あの目が怖い。怖くてたまらない。
「な、なにっ、」
底知れない、あの底の見えない、沈んでいくような感覚は一体何だったのだ。わき上がるこの、何でも出来る気がするという感触は何。
バスケがしたくてたまらない。なのに、あの目が怖くてたまらない。
衝動と感情が乖離していく。恐怖とわき上がってくるこの力が、相反するのに、勝手に躰を動かしていく。取り返しのつかないところまで、足を踏み出してしまう気がする。
「おかしい、おかしい、」
は頭を抱えて、小さくなる。
「!」
実渕の声が聞こえて、逃げたくてたまらなかったけれど、はもう動けなかった。
「なんで勝ったアンタがショック受けてんのよ!」
探したのか、実渕の息も荒い。耳には遠くで鳴るチャイムの音が聞こえていて、これでは実渕も授業サボりだと頭の片隅で冷静な部分が告げる。だが、根本的なの躰は変なほてりと、本能とでゆらゆら揺れていた。
「だ、だって、へ、変、だよ、」
は声を震わせて、三角座りをしたまま、膝を抱えた。
「わ、わたし、弱い、はず、弱いはずなんだよ!」
あんな風に、あっさりと勝てるなんて、何かがおかしいのだ。しかも相手は無冠の五将の葉山で、男なのだから、勝てる方がおかしい。そう、は弱いはずなのに、こんなことはおかしいのだ。
なのに、頭の奥にある本能が、出来ると告げる。何でも出来る、あの感覚が心地よいだろうと問う。あの冷たい目とともに、こっちにおいでと誘ってくる。動きたいと願う躰と、おそろしい泥の中を泳がされ、沈んでいくような、動けなくなるような感覚。
何でも出来るのか、それとも沈んで動けなくなるのか、わからなくなる。
「だ、だれか、とめてっ、止めてよっ!」
この感覚を早くへし折って、何も出来ないんだと教えて。目を強く閉じて、耳をふさいで、は必死ですべてを拒絶する。
だが、そのの身体を、実渕が優しく抱きしめた。
「止められないわ。もう誰もアンタを止められない。」
走り出してしまった才能を、止めることは多分、物理的に出来たとしても、きっと将来という道を開いたという点では、出来ない。
それをするのはの心で、本当は、自分の才能を止めるというのはいけないことだ。
「なんでは弱くなきゃいけないの。」
「え?」
意味がわからず、窺うように彼の顔を見上げると、間近にある実渕の長い睫に彩られた瞳が、まっすぐを射止める。
問われた意味が、にはよくわからなかった。だっていつもは弱くて、情けなくて、赤司がいないとやっていけない。赤司に頼りきりで、彼より弱くって、ちっぽけで、いつも彼の言うことを聞きなさいと言われてきた。
はひとりでは何も出来ない。だが、それは本当だろうか。他人より、そんなに酷く劣っているのだろうか。
「強いわよ。十分アンタは強い。バスケだって何だって、に出来ないものなんて、ないでしょう?」
優しい実渕の手が、肩までしかない漆黒のの髪を撫でていく。
「ちょっと驚いたけど、才能があるってことでしょ?何がいけないの」
確かに、葉山に完全に勝利したのには、全員が驚いたし、凍り付いたのは事実だ。でも、それが何だというのだ。は実渕の親友で、それ以上でも以下でもない。たとえバスケに実渕や葉山以上の才能を持っていたとしても、それは変わらない。
赤司と実渕の関係は主将と部員で、役に立つか立たないかの利害関係で繋がれているのかも知れない。だが、と実渕は親友だ。利害関係なんて考えていたら、部活をサボってばかりのなど、そもそも捨てている。
「行けるとこまで、行きなさいよ。」
実渕だって、限界を感じたことがある。赤司という壁を見て、キセキの世代を見て、自分の限界を思い知った。だからこそ、まだ限界を知らない、才能のあるをうらやましく思うし、逆にその才能を会ってはならないみたいに言うを悔しく思う。
「私は、いつもの味方だから。」
例え誰がの才能に気づけなかったとしても、赤司よりも劣ると言ったとしても、彼女には別の価値があると、実渕は知っている。
だから、絶対に諦めるという決断だけはして欲しくなかった。
Der Beistand 味方