赤司が走って第一体育館に行ったのは、葉山から連絡を受けたからだった。

 幸い職員会議の関係でまだ監督の白金の用事が終わっておらず、練習試合をする学校への挨拶のため出立するのは遅れていた。これでは部活の開始時間にかかる可能性があるので、赤司は生徒会室で本を読んで、一緒に挨拶に行くか、部活に出席するか悩んでいるところだったのだ。




『なんかわかんねぇけど、が大変だって、レオ姉が電話しろってさ。第一体育館にいるからって行っちゃったし!』



 葉山からの電話は愚痴っぽくて脈絡を得なかったが、少なくとも実渕が電話をしろと言ったという事実と、居場所が第一体育館であること、すぐに行かなければならないということだけはわかった。

 元々と実渕は仲が良い。

 しっかりした姉と頼りない妹のような雰囲気で、実渕はを放っておけないらしく、こちらが驚くほどにかいがいしいし、たまにのことに関して実渕が赤司に助言することもあった。は元々年の離れた兄がいるし、どうも実渕の傍が居心地が良いようだった。

 男だと言うことは気に入らないが、彼は非常に賢いし、の紳士的な友人だ。彼女の側に立ちながら、赤司との関係も上手に保っている。でも核心的な部分は絶対に彼女のために言わない。その彼が赤司を呼べというのだから、よほどの事態なのだろう。

 第一体育館に赤司が行くと、入り口の近くに実渕が立っていた。呆然とした面持ちでその視線はバスケットボールのコートに向けられている。実渕の隣には赤司のクラスメイトで、最近と仲の良い宮川も立っていて、口元を押さえている。

 赤司に気づくと、実渕は目を見張ったまま、すっとコートを示した。




「せ、征ちゃん・・・」




 震える声は、コートの上で膝をついているバスケ部のユニフォーム姿の大柄な少女と、ボールをついて厳然と彼女の前に立つ制服姿の小柄な少女へと赤司の視線を誘う。



、おまえ何やって・・・」



 赤司の呆然とした呟きに答えるように、ぽんと大きく響くほど音を立ててドリブルを打って、赤司の方に振り返る。



「誇示。」



 彼女は一言にっこりと笑って答えた。

 さらりと肩で漆黒の髪が揺れて、座敷童とあだ名される子供っぽい容貌に、不気味なほど無邪気で冷淡な色合いを含ませる。口にする単語は、いつも幼い彼女の口から出てくるにはあまりに不釣り合いな二字熟語だった。

 彼女の表情は驚くほどに無機質で、いつもの楽しそうな雰囲気は全くない。唇は貼り付けたように美しく弧を描いている。大きな漆黒の瞳が酷く冷静な色合いと、暗い失望を映していた。それは幼い頃からともにいた赤司ですらも、初めて見るような表情だった。

 一瞬赤司は目の前にいる少女が誰なのかわからなくなる。



「征くんはこんなことよくやるね。最初は楽しかったのに、途中で諦められちゃった」



 は表面だけでころころと笑いながら、目の前の膝をついている少女を見やる。

 それは戸院恭子だった。生徒会長をしていて、女子バスケ部の次期主将であり、インターハイでも注目されるほど才能のある選手。雑誌にも特集される程の才能を持っているはずの戸院ですらも、には全く歯が立たないのだ。



「う、嘘、やろ。」




 宮川が絞り出すような声で言う。

 赤司とのクラスメイトでもある宮川は確か女子バスケ部で、先輩である戸院のすごさも知っている。がある程度バスケが出来ることはわかっていただろうが、それでも男子バスケ部のマネージャーで、まともに練習をしたこともないが、あっさりと戸院を上回る事実を受け入れきれないのだろう。

 見ている全ての人間が、同じだった。



「9対0・・・、」


 赤司は実力としてが戸院を上回ることについては驚かなかった。

 戸院は海常高校の樟蔭と競う程、天才的なプレイヤーとして有名だ。それでも、にはまったく歯が立たない。当然だ。彼女はある意味で青峰の秘蔵っ子なのだ。

 とはいえ、こうした方法で才能を誇示しているのを、呆然と見つめる。




「最初は全力を見せてあげたんだけど、2本目で諦めちゃった。」




 はいつもと同じように少し頬を膨らませて、眉を寄せる。とんとんと軽いドリブルの規則的な音が体育館に響く。

 何人か部員たちも見ているが、誰一人として声を発する人間はいない。



「もう、やめて・・・」



 黙って膝をついていた戸院が、に言う。

 彼女はもう現実を許容できない。自分の努力、経歴、そのすべてが、何の努力もせず、経歴も持たない少女に壊される。しかも圧倒的な差とともに。それはプライドを持つ人間だからこそ、耐えられるものではない。

 それは赤司にも理解できる話だったが、赤司にとって膝をついた女などどうでも良かった。



、やめろ。」



 赤司は呆然と、呟くように首を横に振る。足が震えるほどの恐怖が、赤司を支配する。

 女子バスケ部の部員何人かが見ている。明日には噂になって、彼女はバスケ部のエースを押さえた天才として、学校内で有名となるだろう。目立てば同時に羨望や憎しみも受けることになる。それから身を守ることを、は知らない。

 彼女は赤司に隠れた、おまけではなくなる。彼女は赤司を支える影ではなく、彼女自身が光になる。そうすれば、赤司とは反発しか生まない。かつてのキセキの世代がそうであったように。彼女が赤司といるために、光であってはならない。

 がボールを持ったまま、一瞬その大きな瞳を鋭くし、ゆらりと動く。の目に、ふっと薄い色合いの光が宿る。

 この間、赤司とが本気でやり合った時の、赤司と対極と言ってもよい、本能的にして、天才的な能力を最大限に引き出す光。それは昔、青峰の中にも一瞬だけ見たことのある、一番が望んだ、決然とした、絶対的な光だ。



っ!」



 赤司も動いた。彼女の前に立ちはだかり、彼女の漆黒の瞳を真っ正面から睨み付ける。

 一刻も早く、この茶番をやめさせなければならない。彼女がこれ以上自分の能力を誇示しないうちに。バスケ部の誇りを完膚なきまでに、叩きつぶす前に。

 そして彼女が力を誇示し、人の上に立つことを覚える前に。



「っ、」



 は立ちはだかった赤司を見て、一瞬反応を見せたが、それは表情だけで、速度を落としはしなかった。

 赤司を抜くことは簡単ではない。天帝の眼はどんな些細な人間の動作も見落とさない。だからこそ、赤司にを止められる自信があったが、それはゾーンにいるにとっては別に予想通りだった。彼女は嫌と言うほど、赤司の本気を見てきている。

 赤司がの動きを理解して手を伸ばす。はボールを自分の背中側に飛ばして、自分の身体で隠してそのまま抜いた。

 赤司がその色違いの瞳を丸くする。は彼を見ることなく、伸びてきたバックチップすらもかわして、ボールをとられないように低い体勢のまま斜めに倒れてすぐに、シュートを放つ。大きく手を振り上げてのシュートは、それでも放物線を描いてゴールに吸い込まれていく。




「征ちゃんが、抜かれた・・・?」




 実渕が目の前で起こっていることが信じられないとでも言うように、首を横に振る。



「・・・な、なんなん、あれ。」



 見ていた宮川も、あまりのスピード、反射神経、そのすべてに、眼を丸くした。

 が女子バスケで天才と言われていた樟蔭上総と1on1をしていたのを、宮川は見ている。だがあのときはこれほどの速度もなかった。それに、本気の度合いが明らかに違うことが、すぐにわかった。は本気で、彼に勝つことしか、考えていない。




「ちっ、」




 赤司は生まれて初めて舌打ちをした。

 前にもとやったが、あの時は赤司が十分に追いつける物だった。だが今回はスピードが桁違いに速い。その上、今まで見てきた赤司の映像をつなげて、ある程度どの線に入れば抜けるのか、は無意識ながら完全に予想を立ててきていた。

 は昔から赤司の全力での練習や試合をずっと隣で見てきている。対して赤司は彼女の練習につきあったこともない。の記憶力は統計を伴う。それを分析する能力が低くても、統計である程度どこの位置が赤司にとられないのか、わかるのだ。

 ましてや背中で自分の指先を隠してのボールの方向転換は、赤司の天帝の眼であっても、捉えるこが出来ない。また、身長差も、彼女が低い位置でボールを操り、赤司がとりにくいという状況を助長している。



「おまえ・・・」


 赤司はを睨み付ける。だが、の表情を見てはっと眼を丸くした。視線を向けられた途端、は酷く狼狽えて、悲しそうな、泣きそうな顔をした。

 それは中学時代、いじめによって対人恐怖症を患っていた時の、気絶する前に見せる表情と同じだ。



「・・・」



 はボールを拾って、自分の心を整理するように俯いた。次に顔を上げる時、彼女はいつもの楽しそうな表情に戻っていた。





Wer ist sie?彼女はだれ