目を開けると心配顔の看護婦がいくつか質問をしてきて、それが終わると看護婦は赤司を呼びに外に出ていった。
「・・・あれ、病院?」


 は身をゆっくり起こしたが、頭が痛んですぐにこめかみを押さえた。



「だ、だめですよ、そんなにすぐ身体を起こしては、」



 外から赤司を連れてきた看護婦がすぐに戻ってきて、悲鳴のように叫ぶ。



「だ、大丈夫。少し頭が痛いだけだから、大丈夫です」



 看護婦はをベッドの上に横たえようとしたが、が完全に起き上がったのを見て背中に枕を挟んでくれた。それから医師を呼びに行くため、席を外す。



「縫ったんだよ。」



 赤司の少し冷えた声がに現実を突きつける。



「え?」



 は自分の頭に触れる。包帯が巻かれていて、頭の右側の頭が酷く痛んでいた。鏡を見ていないからよくわからないが、左側の頬も痛い。触れるとずきずきしていて、酷く腫れ上がっている気がして、笑うだけで痛い。



「あれ、ほっぺただけじゃないの?」

「反動で体育館の床に頭を打ったんだ。」



 赤司は酷く怒った顔をしていて、のベッドの近くの椅子に腰を下ろす。

 叩かれるだけだと思っていたので、せいぜいほっぺたが痛い程度を予想していたが、存外重傷らしい。とはいえ点滴の数や人工呼吸器がつけられていなかったところを見る限り、病院には運び込まれたが、そんなに酷くはないのだろう。



「大馬鹿者、」



 赤司の腕が伸びてきて、の身体を抱きしめる。苦しいほどの強い力に、彼の心配がうかがえて、は目尻を下げた。抱きしめられたのが、酷く久しぶりに思える。

 そういえば、小学生のが同級生に塀から突き落とされて大けがをした時も、彼は目覚めたばかりのをこうして抱きしめていた。その時の彼は確かに大きかったが、より少し背が高いくらいで、多分同級生の中で大きかったわけではない。

 今だってそうだ。彼は大きいわけではない。その背中は勝利に押しつぶされてしまいそうなほどに、小さいもので、誰かより優れた能力を持っていても、心は同じだ。

 自分より大きな背中に手を伸ばす。



「あったかいね。」



 は赤司の肩に頬を押しつける。

 いつもこうして、当たり前のように傍にいて、怖い時や不安な時は二人で身を寄せ合って生きてきた。彼の腕の中はとても安心で、中学の時にいじめられたことすらも、全部全部なかったことになるくらい、大切にされてきた。

 彼の作り出した箱庭の中で、は幸せに過ごしてきた。何も知らないままに。でも多分、それだけでは駄目なのだ。




「なんで、あんなことをしたんだ。」




 赤司が少し身体を離してにまっすぐな瞳を向ける。



「え?」



 は正面から尋ねられて、その橙と赤の瞳に怯みながらも、首を傾げた。



「なんでだろう?」



 きっかけが何だったのか、正直よくわからないし、覚えていない。元々は自分の衝動的な感情を説明するのが苦手だ。それに元々、言葉にするのはとても難しい感情だと思う。もまだ、よくわかっていない。

 だが、赤司はその色違いの瞳を瞬くこともなく、の言葉を待っている。



「・・・・よくわからないけど、戸院先輩にはなんだか前からむかむかしていたから、んー多分、あの人の自信のあるもので勝ちたかったの、かも?」



 前から赤司と一緒にいる彼女に苛立ちを感じていた。それが何故なのかにはまだわからないけれど、別れろと言われた時に、この人に負けたくないし、とても不快だったのだ。具体的に何かまではまだ答えを持たないが、鼻っ柱をおりたかったというのが素直な気持ちだった。

 彼女の言葉が正論だと言うことはわかっていた。わかっていたからこそ、彼女の言葉が突き刺さって仕方なくて、否定したかったからあんな方法を選んだ。




「そんなくだらない理由で張り合ったのか?」



 彼は心底の身勝手な理由を嘲ったが、は迷いなく頷いた。



「うん。だって、なんかあの人を見てるとなんかむかついたんだもん。」



 酷くチープな理由だと言うことを、も理解していた。でもは素直に言う以外の方法を知らなかった。何を言われようと結局の所は感情的に、その感情によって力を誇示する道を選んだ。それは安易だったが、本能的なにとっては一番簡単な方法だった。

 まだは力の行使の方法を選ぶことを知らない。



「・・・もう一つ聞いておく、何故戸院先輩を生徒会長から引きずり下ろそうとした。」

「え?んー、あぁ、あれか。」



 戸院に喧嘩を売った理由は間違いなくただの苛立ちで、安易な物だったが、が勝った時の条件とした“戸院が生徒会長を辞める“という事柄は、ちゃんと理由がある。



「だって征くん、生徒会長なりたいって言ってたでしょ?」



 勝った時の条件を尋ねられても、は彼女に勝ちたいという願望以外に何もなかった。そして勝てば苛立ちから解放される、それだけで良かった。でも、商品はフェアにするのが“遊び”を夢中にさせる秘訣だ。

 彼女が生徒会長で、今2年生だと言うことを考えれば、赤司が生徒会長になるためには選挙が必要だ。最低でも赤司が生徒会長になれるのは2年次と言うことになる。だが、生徒会長である戸院が自ら辞任すればもう一度選挙があるだろう。

 今度は一年生もちゃんと立候補できる。



「・・・っ、」



 赤司が酷く傷ついた表情をしたのがわかった。でも、それの意味がよくわからないはふとある懸念に気づく。



「あ、でも、よく考えたら、負けたからって本当にやめるかはわかんないよね。」




 いつもののんびりした調子で、はうーんと躰を傾ける。

 バスケの1on1自体はが圧勝することが出来たが、約束を知っているのは実渕と、そして本人の戸院だけで、生徒会長をやめるなんて言ってないと突っぱねることは出来る。そんな簡単な可能性にも、は思い当たらなかった。

 そう、すべてにおいて、力の誇示の仕方を間違えているのだ。



「あ、でも、わたしが怪我をしたから、問題になってやめてくれるかな。」



 頭を縫ったのだったら、学校で問題になっているかも知れない。多分、生徒会長として一学年下のと起こした暴力事件は、色々と問題になるはずだ。そうなれば、生徒会長の地位を失う可能性が高くなってくる。

 バスケの1on1をやる必要はなかったと言うことになるが、どちらにしてもは彼女が生徒会長をやめてくれれば問題はなかった。



「良かったね。征くん生徒会長になれるよ。」



 はにっこりと笑う。

 少し頭は痛むけれど、彼が生徒会長になりたいと願っていて、その夢が叶うのならば、きっと彼の役に立てたと言うことなのだろう。

 無邪気な笑み、無計画な力の行使。其れがどれほどもんだいになるのか、どういった意味を持つのか、そして同時に赤司を傷つけるのか、は何もわかっていなかった。



「・・・おまえは本当にそう思ってるのか。」



 低く、どこまでも背筋に冷たく走るような声が、に問う。



「え?」




 は小首を傾げて、俯いている赤司を見る。目の前にいるというのに、彼の表情はうかがえない。




「だって征くんは生徒会長になりたいんでしょう?彼女がやめたら・・・」



 どうして賢い彼に、同じことをもう一回説明しようとしているのだろう、と頭の片隅で考えながら紡いだ勢いのない言葉は、赤司の歪んだ眼差しに留められた。



「・・・っ、」




 顔を上げた彼の瞳はどこまでも鋭く、冷たく、それでいて燃えるような熱のこもった怒りを示していて、は生唾を飲み込む。いつも傍にいたはずなのに、これほど恐ろしい彼を見たことがなかった。殺意にも似た感情を向けられたことはなくて、ベッドの上で後ずさろうとして、腕を強く掴まれた。

 骨がみしみしと音を立てそうな程強く握られた腕に、力がこもる。



「おまえは僕がの怪我を喜ぶと思ってるのか。」




 あまりに近い距離で受ける圧力に、は勝手に身体が震えるのを感じた。




「え、え、な、なんで怒ってるの、ち、違うよ、そういうことじゃなく、」

「違わない。」



 赤司はかつてないほどの屈辱と怒りを覚えていた。

 は赤司がを犠牲にしてでも生徒会長を望むと思ったのだ。今までが傷つかないように、赤司はできる限り気を使ってきたはずだ。全中の決勝の後、バスケに関わることで傷つく彼女を見たくないから、バスケからも出来るだけ遠ざかることを認めた。

 自由だって認めた。それは彼女を守るためだった。関係性が徐々に変わり、うまくいかなくなってからも、バスケでの二人の理想が合わなくなってからも、赤司が勝利を求めるだけになっても、それでも赤司は彼女を大切にはしてきた。そこに勝利や損得勘定を持ち込まなかった。

 なのに、その赤司の気持ちは何も伝わっていなかったのだ。は勝利という原則を覆してもを大事にしてきた彼の努力を、全く理解していなかった。




「わ、わたしは、ただ、征くんの、」

「もう良い。おまえは何もするな。」




 泣きそうな表情で何かを言おうとするの言葉を、赤司は早々に打ち切った。

 どんな過程をたどろうと、結論は変わらない。赤司を信じず、赤司がを犠牲にしてでも勝利を得たいと彼女は思っている。

 それは赤司への信頼のなさの表れでもあり、今までの赤司のに対する努力の否定でもあった。

 ましてや彼女は今回のことで自分の力が十分に通じる物であると言うことと、才能の誇示の仕方を覚えた。強力な力は使い方を間違えば、恐ろしい効果を生むことになる。なまじ賢い奴ほどやっかいなのだ。一級の才能を抱えて、ふらふら動かれては赤司の身はいくつあっても足りない。

 今回のことですら、赤司がどれほど心を乱されたのか、彼女は知らないのだ。



「おまえはどうせ普通のことは普通に出来ないんだ。何もするな。何もしてくれるな。」



 それは懇願に等しかった。

 は幼い頃から他人と合わせるのが苦手だったし、そんなことを言うだけ無駄だ。だからといって今回のように勝手に才能を使って誇示すれば、大事になる。ならば、何もしないのが一番だ。何もしない、させない。それが一番簡単で、単純な解決方法だ。

 の目尻が酷く下がり、悲しそうな顔をする。



「・・・わたしは、征くんの役に立たない・・・の?」



 震える声で小さな手が赤司の服を掴む。いつも泣きそうな顔をして、瞳を潤ませるこの表情に、赤司は弱かった。

 だが、ここで甘い顔をするわけにはいかない。



「立たない。」



 赤司は心を鬼にして、潤む瞳に拒絶を示した。途端に大きな瞳は丸く見開かれ、目尻からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。



?」



 が何も言わないことに、ふと不安になり、赤司は問いかける。



「・・・」



 は無言で身体をベッドに横たえると、赤司とは反対の方向を向いた。赤司も迂闊に声をかけることも出来ず、ぐっと拳を握りしめる。

 先ほど壁を叩いた手には、血がついていて、ぽたりと床に落ちた。

 これは決定的な破局ではないと、赤司は思っていた。緩慢なままこの関係が今まで通り持続していくのだと。だがそれはの中に大きな変化を生んだ。




ausserhalb der Saison季節外れの