いつもを守ってくれるのは幼馴染みの赤司だった。

 たまに他人に冷たい時もあるけれど、いつも自分には優しくて、外から酷いことをされたら自分を守ってくれる。当たり前のように傍にいてくれる、誰よりも安心できる存在。それがにとっての赤司征十郎そのものだった。

 瞼をあげればぼやけたしかいに赤色が映る。




「あぁ、起きたのか、」



 低くて柔らかい声が聞こえ、そっと髪を撫でられた。優しい赤と金の瞳はいつもに向けられたものと同じ、とても優しい色をしている。

 酷く怖い夢を見た気がする。とても、とても怖い、長い夢を見ていた。



「征、」



 くん、と名前を呼ぼうとして、勝手に声が掠れる。喉が酷く痛んで手で押さえようとすると、手が鈍く軋んでいたんだ。

 自分の手に視線をやると、あちこちに鬱血痕や痣、噛まれた後が青紫に変色していて、手首にはきつく掴まれた痕がくるりとついていた。

 首を傾げて、なにこれ、と理解できない、理解したくないと頭が自分に問う。



「あぁ、痛かったね。後で薬を塗ってあげよう。」



 驚くほど優しい声が言って、の手を温かくて大きな手が包み込む。

 いつもは誰よりもに安心をもたらすその手が、の心を恐怖にかき立て、勝手に身体ががたがたと震え出す。心は忘れたいと願っても、昨晩深く刻まれた反射は、消えたりはしない。



「・・・ぁ、」



 身体に昨晩の恐怖と絶望が戻ってくる。

 僅かな抵抗を見せるだけで酷い痛みを与えられ、言うことを聞けば快楽を与えられる。服従というものにも慣れていなかったは、すぐに抵抗を示し、即座に暴力で返された。身体が覚えるまで続けられた行為は、幼い頃から培ってきたと赤司の関係性のすべてをぶちこわすに十分だった。

 かたかたと小刻みに震える身体は、目の前の彼に恐怖している。



「そんなに怖がらなくても良い。僕の隣にいる限り、僕は酷いことはしないよ。」



 優しい声に心が底冷えしていく。抱きしめてくる手はいつもと同じように温かかったはずだが、その手がすでに恐怖の対象であるため、怖くてたまらない。

 心臓が壊れそうなほど脈打って、体温が上がってもおかしくないはずなのに、どんどん冷えていく。



「僕だってこんなことはしたくないんだ。」




 僅かに憐憫を含んだ声音が、耳元で囁かれる。彼を見上げると、目尻を下げて、悲しそうな顔をしていた。少しだけ、の心に体温が戻り、彼に手を伸ばそうとする。

 だがその傷だらけの小さな手に、大きな手が重なる。



「痛いのはも嫌だろう?なら従え。」



 吐息がふれあうほどの近い距離で、まっすぐと冷たい瞳がを射貫く。色違いの瞳は今までを守ってきたものだったが、それが今はに刃として降りかかってくる。

 彼に触れられている手が、小さく震えている。



「返事は?」



 低く、彼の声が了解を求める。

 口を開こうとして、声が掠れて出ない。喉が渇く。恐怖と悲しみと絶望がないまぜになって、心がうまくついて行かない。なのに暴力というものに縛られた身体だけが彼の行為に怯えて震える。



「・・・」

、また痛くされたいのか?」

「・・・は、はい。」




 心がついていかないのに、身体が与えられるであろう痛みや恐怖に負けて、掠れた声を出す。すると彼は酷く安堵した表情での頬を撫でた。


「そんなに怯えなくて良い。ね?」



 こつんと額を合わせて、彼は言う。

 昔もこうして一緒に眠っていた。その時は彼の存在が隣にあることが安心の証拠で、誰からも守られているとほっとしていた。でも今は逆だ。彼の存在がを苛むものでしかない。目の前にある温もりが、恐ろしくてたまらない。

 そう思えば、勝手に涙があふれる。それが目尻にしみて、とても痛い。だがそれを拭うために腕を上げることすらも出来なかった。



「ほら、泣くな。おまえに泣かれると僕でも焦る。」



 昔と変わらぬ口調で赤司はを慰め、優しくの目尻の涙を拭う。なのに、その冷たい指先が怖くて、恐怖としてしか受け入れることができない。



、好きだよ。だから僕はおまえには誰よりも傍にいて欲しいんだ。」



 優しく言われても、それはいつもと違って陳腐に聞こえた。紙に書かれた言葉のように、何も響かない。

 の心は崩壊寸前で、生まれてから一番絶対的な信頼を向け、安心できた存在を失ったことに、ついていけない。ただ一晩で染みついてしまった暴力を恐れる身体が、赤司の声や一挙一動に反応する。



「疲れてるんだな。少し眠っておけ。後で温かいものを持ってきてやる。」



 頭を優しく撫でられ、柔らかい声音で言われる。それすらも怖くてぎゅっと目を閉じていると、彼の気配が離れたのがわかった。背後でドアをバタンと閉める音が聞こえて、起きて初めてやっとは安心することが出来た。



「ふっ、」



 身体から力が抜けると同時に、激しい感情がこみ上げてくる。



「うぅ、えぇ、」



 冷え切った恐怖故の涙ではなく、心からの悲しみや悔しさ、絶望が熱い本流になってを支配し、いっぱいいっぱいになった心が、勝手に泣き声となってあふれる。



「ふえぇえええええ、ぇええん、っ、うぅ、えぇぇぇん。」



 気づけばは今までにしたこともないくらい、大きな声を上げて泣いていた。

 勝手に目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちて止まらない。涙を拭おうと手を上げる腕を上げると痛くて、痛くて、情けなくて、は痛む身体を起こして、痛みが体中に走ることを確認してまた泣いた。

 何故こんなことになったのだ。

 黒子に言われて、は自分の気持ちを見つめ直した。自分はやはり赤司が大切で、彼のバスケが例え嫌いであったとしても赤司が一番大事で、彼が負けるのを見るのは絶対に嫌で、だから素直に彼の応援をしようと決めたはずだった。でも、そんな感情は全部全部、暴力によって押しつぶされてしまった。

 赤司はが離れていくかもしれないと思ったのだろう。

 根本的には赤司が大切で、例えバスケへの考えの違いから、物理的に彼から離れることはあっても、彼自身を嫌いになることなんてあり得ない。でも多分、が赤司に見捨てられるかもしれないと彼を信じられなかったように、彼もまたを信じられなかった。

 互いが思っていた以上に、どうしようもないくらいにお互いの感情のずれは広がっていて、の答えを聞くだけの余裕は赤司にはなかった。

 泣いているの視界の端には、枕元に置かれたスマートフォンがある。



「てっちゃぁん、うぅ、ええ、・・・え、ぇええん、」



 泣きながら、はそれを手に取った。

 もうどうして良いかわからなかった。赤司から暴力を振るわれたことも、安心していた存在が一番自分を苛む存在になってしまったことも、もうのキャパシティーを超えていた。感情がこみ上げて、でもどうすれば良いかの答えをもう全部踏みつぶされていて、わからない。

 はぼろぼろと涙をこぼしながら、震える手でボタンを押す。



「え、えぅ、うぅ、あ、あれ?」



 だが、アドレス帳がほとんど何もなかった。画面が涙で滑って、うまく操作できない。でも少なくともアドレス帳のほとんどの人が消されていた。



「え、え?」



 混乱している頭ではもう何でかわからず、でもひとまず番号は記憶しているので、それにかける。だが何もかからなかった。もう限界の心に不自然な隙間が生まれる。



「ど、して?」



 涙が、一瞬だけ止まる。だが低い声が後ろから響いて、は肩を震わせた。



、」



 ぎしっとベッドが軋む。

 止まっていた身体の震えがぶり返してきて、全身が凍り付く。先ほどの悲しみやどうにもならないあふれるような感情が一瞬にして冷め、底冷えするような恐怖だけが後ろから迫ってくる。




「誰に電話したかったんだい?」




 後ろから伸びてきた手が、のスマートフォンを手から取り上げた。は恐怖のあまり後ろを振り向くことも出来ない。



「どうせテツヤあたりだろう?だからスマートフォンのsimカードは抜かせてもらった。」



 最初から、が次にどんな行動に出るかなんて、赤司にとって予想することは難しくなかっただろう。なんと言っても生まれてからほとんどの時間を一緒に過ごしてきたのだ。がショックを受けた時どんな行動に出るか、誰よりも知っている。



「・・・どうして、」



 止まっていた涙が、また関係なくこぼれ落ちる。だがそれは感情の発露としてではない。純粋な恐怖だ。



「どうして?自分の恋人が他の男と電話をするなんて不快だろう?」



 心底不思議そうに、赤司はに言った。それは昔、実渕も言っていたことだ。



「ずっと苛々してたんだ。」



 は赤司の前でも平気で男と電話する。

 帝光中学の同窓生と特に仲が良く、黄瀬や黒子などとはしょっちゅう連絡を取り合っていたし、先日会いにも行っていた。そうやって皆と無邪気に笑いあうが、誰にでも笑顔を振りまく彼女が、赤司はずっと大嫌いだった。

 自分のもので、いて欲しかったから。

 それでもそれを口にしなかったのは、彼女に自分から離れて欲しくなかったからだ。あまりうるさく言えば嫌われてしまうかもしれない。愛想を尽かされてしまうかもしれない。そういう恐怖がいつも赤司の言葉を奪った。



「・・・でも、結局離れて行かれるなら、一緒だよね。」




 赤司の目に悲しそうな色合いがよぎる。それはわざとではなく本当に心のもので、は彼に手を伸ばした。

 違う、と言いたかった。離れていく気なんてない。貴方にもう一度楽しそうにバスケをして欲しくて、だから負けたら変わってくれるかもしれないと思って、その協力をしたかった、それだけだった。根本的にが赤司から離れられるはずがないのだ。でももうそれはとっくに手遅れ。

 の手を、赤司が掴む。



「テツヤに、何を話したかったんだい?」



 色違いの瞳が、を冷たく射貫く。恐怖が、の身体を支配し、意志力を奪っていく。声を出したかったが、の声は全く出ない。

 何を話したかったんだろうか、ただ衝動のまま電話をしていたので、わからない。



「悪い子だね、」



 赤司はから答えが返らないのを見て、不機嫌そうに眉を寄せる。そしての耳元に唇を寄せた。



「従わない子にはお仕置きが必要だね。」



 首筋を生暖かい感触が這う。それはまるで儀式のようで、次の瞬間、の首筋には激痛が走っていた。

aller Verlust全ての喪失