月曜日、頭を打って以来久々には学校に行くことになった。
「ほら、ネクタイが歪んでいるぞ。」
赤司は浮かない顔のに手を伸ばす。まだ恐怖が残っているのか、赤司が手を伸ばすとは肩を震わせた。
それに構うことなく、赤司はの首に巻かれている黒いネクタイを解き、しめなおす。一瞬ブラウスの下にある青い痣や噛み痕が見えたが、それもネクタイを締めてしまえば全く見えなくなる。理性を失ったかと思っていたが、我ながらそういう所だけはしっかりしているなと赤司は息を吐いた。
体中に酷い咬み痕や、痣があるが、それは服から見えないところだけで、一見すればにあるのは頭の傷だけだ。浮かない顔も、救急車で運ばれるほどの傷だったのだから、当然だと解釈してくれるだろう。
「、」
赤司は俯いているの頬にそっと触れて、上を向かせる。大きな瞳は怯えたように赤司の一挙一動を窺っていた。
「そんなに怯えなくて良い。指示はわかるように出す。」
の不器用さは赤司がよく知っている。すべてがすべて赤司の思うとおりに動けるなどとは思っていない。具体的な指示でなければはわからないだろうし、抽象的な物はどうやっても空回りしてしまうに決まっている。
それに赤司ものすべてを縛ろうと思っているわけではない。ただ、今までと違って嫌なことは言うし、遠慮はしない。言うことを聞かない場合は罰すると言うだけだ。
「僕はが好きだ。だから、いつでも傍にいて欲しいし、誰よりも優先して欲しい。それだけだ。」
ずっとずっと変わらない気持ちがある。
どういう形であれ、傍にいて欲しい。離れていくなんて言わないで欲しい。根本的にはそれだけれど、その最低限のことすらもにはなかったのだろう。
いつもそうだ。いつも赤司の気持ちばかりが大きくて、の気持ちはとても小さい。自分に好意を持っていたとしても、それは赤司が持つ物よりもずっと小さくて、きっとこんなふうに相手を閉じ込めたいと思うほど、愛することもないのだろう。
「征くん、わたしも・・・だよ、」
震える手が、赤司の手に重ねられる。酷く怯えた答えは続かない。瞳を潤ませる彼女を見ながら、赤司は自嘲した。
「そうか。」
ずっと欲しかった言葉は、赤司の耳に酷く空虚に響いた。のその答えが、本当でないことを赤司は知っている。
彼女は赤司が怖くてたまらないのだろう。だから、頷かなければ痛い目に遭わされると思って頷くのだ。もう二度と、多分赤司は彼女の本心を聞くことは出来ない。支配とは相手を、当人の意志とは関係なく思い通りに動かす方法だ。代わりに相手の意志がわからなくなる。
のイエスはあくまで恐怖と支配よってのもので、彼女の本心はもうどこにあるのかわからない。そこにあった僅かな好意と信頼すらも、もう跡形もなく消えてしまっているかもしれない。
それでも、赤司は彼女を側に置くのをやめられない。
「好きだよ。」
の唇に、自分のそれを重ねる。
散々昨晩彼女の身体も、心も傷つけた唇でそれをするのは酷く滑稽だったが、彼女は唇を重ねれば拒んだりしなかった。だが、それも恐怖故なのかもしれない。
そう思えば、赤司の心は酷く痛んだ。
多分もう戻れないのだろう。信頼などもう欠片もなく崩壊してしまって、あるのは恐怖と力による支配だけだ。
「征くん、」
こわごわとの手が自分の頬を撫でてくる。小さくて温かい手は、幼い頃から変わっていなくて、でもそれが自分を責めているような気がして、赤司はから身体を離した。
「頭の怪我の件については、僕が対応している。だから、おまえは何も言うな。」
が戸院にバスケでの試合を望み、そして体育館で彼女に勝利を収め、叩かれて偶然体育館の床に頭を打ち付けて病院に運ばれることとなった今回の件。
が頭を縫うほどの怪我であったため、現在戸院は自宅謹慎処分となっている。
勝負はからけしかけたが、戸院が赤司に好意を持っていたことは知られており、赤司はそれを利用して、戸院が赤司の恋人であるに害をなしたという風にわざと噂を流した。戸院は生徒会長であり、次のバスケ部の部長の予定だったが、これで大きく状況は変わるだろう。
人望は当然戸院の方があるので、疑っている生徒もいるだろうが、の怪我を見れば一応納得はするはずだ。
幸いは赤司との関係の変化で沈んでいるし、の目尻を下げている様は幼い容姿も相まって、非常に可愛そうに見える。黙っておけば同情が勝手に集まることだろう。
「・・・ねえ、戸院先輩はどうなるの?」
「昨日言ったはずだ。放って置いても自主退学するだろう。」
「どうにか、ならないの?」
「どうにかならないことはない。だが僕はする気はない。」
赤司はにはっきりと返した。
「おまえの言うとおり、僕にとって彼女は邪魔だったからね。いつかはどうにかしようと思っていたし。」
2年生である戸院はどちらかというと、赤司にとって確かに邪魔な存在だった。
清廉潔白な人物で、だからこそバスケ部の次のキャプテンに選ばれたわけだし、成績も良く、先生からの受けも良い。を呼び出そうとしたが、実渕が傍にいるとわかればすぐに彼の前であってもはっきりとに感情をぶつけたのも、戸院自身にやましいところがいっぺんもなかったからだ。
だから、を叩いたことに、それ以上の意味がなかったこともわかっている。ただそれを赤司が利用しない手はない。
年齢とは大きな効果がある。彼女は2年で、赤司は1年だ。しかも同じバスケ部の主将となれば、また肩書きも似通っていて、差がつきにくい。そういった時に選ばれるのは必ず上級生だ。戸院は赤司からすれば確かに邪魔な存在だった。
ただ、だからといってに怪我をさせるようなやり方でそれを果たしたかったわけでは断じてない。
「でも、でも・・・」
「おまえに何の影響もない。そういう風に僕がするから、何も心配しなくて良いんだ。」
赤司はの怪我をした方の頭を撫でてやる。
まだ抜糸が終わっていないので、傷をとめるホッチキスが刺さったままだという。その下のガーゼはやはり隠しきれず、痛々しい。傷は髪に隠れる位置だと医者は言っていたが、幼い頃の傷のように、赤司がの髪に手を絡めれば、わかるのだろう。
「それより、お祓いにでも行ってきた方が良いんじゃないのか、頭ばかりだ。」
赤司はの頭をそっと撫でて、腕に抱え込む。
幼い頃より少し目線が下になった彼女の頭は、身体の縮尺の割には大きい気がしたが、多分赤司ほどつまっているわけじゃない。でも、人体で一番大切な場所で、簡単に死んでもおかしくない。今回は運が良かっただけだ。
「・・・たった2回だよ。」
「二回もあれば、十分だ。」
実際に赤司は死にかけたこともないし、頭に大けがを負ったこともない。なのにばかり、しかも他人のせいで頭に怪我をする。赤司にとっては身体が震えるほどに恐ろしいことだ。
だから、どんな理由があろうと、それをもたらした人間を赤司は絶対に許さない。
「がいれば良いんだ。」
他の人間のことなんて知らない。どうだって良い。
どうせ彼らは裏切るし、能力的に信用できても信頼など出来ない。は違う。いつでも信頼して、こちらに頼ってくれる。だから、ただ頼る存在であれば良いのだ。自分だけに。
「他はどうでも良い。」
だから、だけを全力で繋ぎ止めておけば良い。そうすれば自分は誰にも頼らず強くいられる。赤司は心の底からそれで良いと思っていた。
Der Vogelkaefig 鳥籠