彼は非常に完璧な人間だった。

 スポーツ万能、成績は常に学年主席。容姿端麗であらゆることをそつなくこなす。そんな人間に憧れるのは、例え後輩であっても普通のことだろう。ましてや近しくはなすの人間であれば、その憧れを来いと勘違いすることもある得る話だ。

 だから、生徒会に彼が出入りし始めたときから、生徒会長の戸院恭子は彼が気になって仕方がなかった。今考えればうわべだけの浅はかな感情だったと思う。

 そんな彼に中学時代からの恋人がいると知ったのは、存外すぐのことだった。それも赤司自身の口からだ。どんな子なのかと戸院が尋ねると、彼は一言「困った子供。」と寂しそうな笑顔で答えた。

 最初は意味がわからなかったが、部活をサボったり、授業に出てこないという点で、赤司は彼女に対して困っていて、また、本人を見てすぐに“子供”だという意味もわかった。背が小さく、酷い童顔で、また行動も幼く、恋人がいるというのにいつも実渕と一緒にいた。

 もちろんやましい感情はないようだが、恋人が他の男といて、良い気がする恋人がいるはずもない。そういうことすら理解できない、赤司を困らせる酷い子供に見えた。

 彼のバスケにも、必要とされているのに協力しない。恋人としての役割もはたさない。少し証のことも考えろと、ただそれだけの忠告のつもりでに告げた言葉を、は戸院の望む具体的な形に変えてきた。



 ―――――――――――良いよ。もしわたしに勝てたら、別れても、



 それは悪魔のささやきに等しかった。別に赤司の恋人になりたいなど、戸院は望んだことはなかった。に対しても忠告したかっただけで、別れて欲しいと思ってはいないつもりだった。

 だが心の奥底にあったその願望をは見抜いた。そのまっすぐすぎる漆黒の大きな瞳で。



「馬鹿よね。」



 応接間を出て、廊下にさしかかったところで、戸院は小さく呟く。

 一年生は下の階であるため、二階の教室に戻る二年生の実渕と戸院は、一年生のとここで別れることになる。



「え?」



 隣に立っていたは、不思議そうに戸院を見上げた。

 170近い身長のある戸院と違い、彼女は150あるかないかくらいで非常に小柄だ。しかしその小柄さを利用したバスケをし、あっさりと戸院を押さえた。苛立ちから手を振り上げた時、ただ一発だけ叩きたかっただけだった。自分の長年のバスケへの努力を踏みにじられた気がしたから。

 なのに、それは酷い凶器となって小柄な彼女に大けがをさせてしまった。



「あの、戸院先輩・・・ごめんなさい。本当に。」



 は悲しそうに目尻を下げて戸院に言う。だが彼女に謝罪すべきは自分であると、戸院は知っていた。

 彼女が入院している間の話し合いで、赤司が戸院の退学を望んでいることはすぐにわかった。彼は今までの人当たりの良さが嘘のように終始戸院に冷たく、庇う気は一切ないらしかった。むしろ一切視界にも入れたくないようで、のためと言うよりは自分自身のためにを傷つけた戸院を排除したいようにすら見えた。

 自分が非常に不利な立場に追い込まれたのも、戸院にはわかっていたが、それでも何も言えなかったのは、に頭を縫うほどの怪我をさせてしまったという負い目があったからだ。

 でも結局、それを吹き飛ばしたのは、本人だった。



「あんた馬鹿じゃないの。・・・なんで私を助けたりしたのよ。」



 戸院は思わずその言葉を口にしていた。

 教師たちはをただ流されやすく、大人しいと思っていたため疑問に思わなかっただろうが、バスケを通しての本質が理解できた戸院には、が赤司に怯えていると言うことが明確にわかった。

 のプレイを見てわかるのは、彼女は天真爛漫で、本質的には非常に高い能力を持っているが、感情的で感性を優先させる傾向にあると言うことだ。それが彼女の読めない、予測できないプレイを生む。理性的な赤司とは一番対極にあると言ってもよいかもしれない。

 赤司が来た途端、はすぐに態度を変え、彼が来るまではよく話していたのに、口を噤むようになった。感性で生きている彼女の感情を抑え込ませるほどに、赤司はを支配しているのだ。



「赤司君、怒ってるわよ。」




 戸院を退学に追い込みたかったのは間違いなく赤司の方だ。それをの態度を見て戸院は確信している。彼女は怯えながらも、わかっていて赤司の意志に逆らい、裁きを待っている。


「・・・うん。そうだね。」



 はぎゅっと胸元で拳を握りしめ、泣きそうな顔をした。



「でも、・・・わたしは、もう、人の道をつぶしたくないんだ。」



 中学時代、が赤司に対して何も言わなかったせいで、バスケを嫌いになり、やめていった人たちがいる。


 ――――――――――――オレらの心を折るには十分すぎた。



 そう言って、悲しそうな顔で、高校になったらバスケはやらないと言った人を覚えている。黒子と一緒に行った、決勝戦の対戦相手の中学。はごめんなさいと泣きじゃくるしかなかった。

 はあの時、赤司の味方でいることに必死で、彼の正しさも、やり方も、そしてその結果すらも、何も疑っていなかった。が協力することで、より彼が勝ちやすくなり、強者の遊びが未来の目すらも奪っていくのを、理解できなかった。



 ――――――――――――人間、後悔しないのが一番よ



 実渕が言ってくれた言葉が、にとっては一番必要な物だ。は彼らの夢をつぶしたことを、そして赤司の協力をしたことを心から後悔したのだ。結果を、知っていたはずだ。どうなるかなんてわかっていて、止めず、協力した自分にもまた、責任はある。

 流された自分にも、問題があったのだ。



「だから、征くんが怒っても、後悔はしないよ。」



 与えられる痛みを思えば、そして悲しそうな、苦しそうな赤司を見れば、も悲しい。

 どうして彼の傍にいたいと思ったのに、痛みを受けて、離れるつもりもないのに無理矢理繋がれて、支配されて、酷い扱いを受けているのか、それでも自分が彼を嫌いになれず、逃げ出すことが出来ないのか、結局の所、は彼が好きなのだ。

 でも、他の人の未来までつぶすのを黙っていることはもう出来ない。



「だから、・・・やめちゃだめだよ。」



 が大声で否定しても、その声は赤司によってふさがれてしまうかもしれない。戸院の今までの評価を信じている人たちもいるだろうが、疑う人間が大半のはずだ。それは生徒会長を辞職すればなおさら影響し、辛い噂がかき立てられるだろう。

 そこから逃げないというのは、難しいことだとはわかっている。はいじめの時も、引っ越しという形で赤司の所に逃げ込んだから。



「どうせ、私に生徒会長を辞めて欲しかったのも、彼なんでしょう?」




 戸院は鋭い漆黒の瞳をに向けた。



「それは、わたしが決めた条件だよ。」

「でも、それを最初に言い出したのは彼でしょう?」



 確かにが出した条件だったが、その発想がが思いつくには突飛で過ぎている。戸院も確認していることだが、には欲がない。ましてや赤司と戸院が一緒にいるのを疎ましいと思っていたのならば、近づかないで、となら言っただろう。もしくは“生徒会を辞めて”だ・

 なのにが“生徒会長”をやめて、と言い出したのは、恐らく赤司が、戸院が生徒会長をなんらかの方法でやめてくれれば良いな、というようなことを少なくともの前で口にしたことがあるからだ。でなければそんな発想自体がの中に生まれない。



「一つ、なんか言うこと聞いてあげるわ。」



 戸院は階段の手すりに乗っかって、大きなため息をつき、小さなを見おろす。



「あんた私に勝ったでしょ?」

「でも生徒会長やめたよ?」

「それは頭に怪我させたお詫びよ。」



 結局頭に怪我をさせた上、試合に負けた訳だ。ただ律儀な戸院としては、きちんと返しておかねばいけないと思っていた。



「じゃあ、たまに遊んで。またバスケしよう。」

「はぁ?・・・あんた強いじゃない。私なんかとしてどうするのよ?こっちは血を吐くような努力をしてきて、ここまできたの!」



 正直試合をしてみてよくわかったが、と戸院の間には大きな実力差がある。それは努力などで覆せるようなレベルではない。まさに天才的と言うべき物だ。しかも彼女はバスケ部ではないと言うのに、それを当たり前のように持っている。



「んー、わたしは血を吐いたことはないけど・・・バスケは好きだよ。」

「・・・」



 目尻を下げてチワワのように言われると、勢いが失せる。

 努力してここまで来て、なのにそれをあっさり才能によって覆されるなど、悲しみを通り越して怒りを覚えるほどに悔しい。だからこそ戸院は貫に手を振り上げてしまった。今までの努力が否定されたような気がして。

 だが日頃の彼女は勢いをなくすほどに、弱くて、言う気がなくなる。



「え、だって、遊んでくれないと寂しいよ。」




 しょんぼりとうなだれている姿は、圧倒的な力で戸院に打ち勝った少女とは思えない。



「・・・もう良いわよー、わかった、わかったわ。あとで、メール教えなさい。」

「え?」

「遊んであげるわよ。」



 戸院が答えるべき言葉は、それ以外にもうなかった。


Versoehnung 和解