まだ一回戦であるとはいえ、奇跡の世代の試合と言うことで、桐皇対誠凛はすごい観客だった。は一番後ろの席に、赤司はその真後ろに立って見る。コートの方を見ると、入ってきたと赤司に気づいたのか、黒子が振り返る。



「てっちゃーん!」



 が高い声で手を振って見せる。すると黒子は一言二言仲間に何かを告げると、観客席の方への階段を上ってくる。は席から立ち上がり、足下に気をつけながら階段を降りようとする。だが赤司に腕を掴まれた。



「行くな、」



 冷たい声音で言われ、目を見開く。



「行かないでくれ。」



 小さく続く低い声音での懇願。は振り返り、安心させるように彼に向けて微笑んだ。



「どこにも、いかないよ。」



 行けるぐらいなら、行っていた。そう続けることはせず、はやってきた黒子に視線を向ける。彼はいつもと変わらない、目元は無表情だったけれど、僅かに口元が笑っていた。



、熱は大丈夫なんですか?」

「うん。だって、てっちゃんと大輝ちゃんの試合だもの。」

「熱が40度近くあるがな。」



 楽観的なの言葉に、赤司が現実を差し挟む。あまりの熱の高さに、黒子は顔色を変えた。



「え、それはダメですよ。寒いんですから。」



 設備がどれほど良いと言っても、ウィンターカップ。当然冬で、観客席は一際冷える。マフラーやコートで武装したとしても、冷気は遠慮なく肌を突き刺すだろう。高熱の人間が来て、バスケの試合を見られるような環境ではない。



「大丈夫、」

「大丈夫じゃないですよ、」



 黒子はの額に手を伸ばし、熱を確認して首を横に振った。



「結構高いですよ?薬は飲んだんですよね?」 

「飲ませたが、熱が下がらなくてな。」



 赤司は腕を組んだ体勢のまま、大きなため息をつく。それにはを行かせたくなかったという感情がにじみ出ていて、黒子は苦笑した。



「僕は始まるまで席を外す。」



 赤司は近くに洛山の選手がいるのを確認して、彼に指示を与えるために場を離れる。それを確認してから、は近くにあった席に座り、その隣に黒子が座った。

 ふたりで、今日、まさに今から試合が行われるコートを眺める。



「不思議だね。昔もこうやって、一緒に眺めてたね。」



 昔を思い出して、自然と口元に笑みが浮かぶ。

 ベンチで選手を間近で見ることが多かったと、体力の問題のためベンチで座っていることの多かった黒子。ふたりで中学の時もこうして、コートを眺めていた。眩しい奇跡の世代たちを、時にはそこに混ざりながら、目を細めて見ていた。

 それが嬉しくてたまらなかった、あの頃。



「いよいよだね。てっちゃん。」



 の声がいつもは高いのに、試合前だけは酷く落ち着いているのだ。

昔からそうだった。いつもはテンションが高く、意味のわからないことを言うも、試合前はいつも選手と同じように緊張して、静かだった。久々に聞く、のこの声音に、黒子は心地よさを覚える。

 いつもの声音は、黒子を落ち着かせる。それは恋愛感情ではない、恐らく、刷り込みのようなものなのだろう。

 きっと、赤司もそう。ともにいる時間が長い分、無意識ですり込まれてしまっている。



「そうですね。」



 黒子のかつての光。青峰大輝。あの天才を倒すことは、黒子にとって始まりであり、そして、過去の自分に打ち勝つことでもある。



「赤司君と話は出来ましたか?」



 黒子の声は優しい。はゆっくりと首を横に振る。



「ダメだった。でも、てっちゃんの言う通り、少なくともわたしは征くんにとって必要みたい。」



 どういう形であれ、は彼に必要とされている。側に置いてもらえるというのは、わかった。

 赤司のぶかぶかのコートの下に隠れた肌は痣だらけ。の勝手はほとんど許されない。熱が出ていたとしても、必要な場所には引きずられるように連れて行かれる。それでも、彼はが必要だと何度も口にするようになった。

 も少し口にするようになったが、彼は信じていないだろう。

 ただ、は彼の隣に戻った。帝光時代と同じように彼の傍にいる。でも、あの日のように赤司を無邪気に信じることは出来ない。一杯の悲しさを抱えてここにいる。




「何も、知らなかったら良かったね。」




 全中の決勝戦で、絶望にまみれた負けた選手の暗い目と、奇跡の世代の退屈な瞳を見るまで、は赤司を疑ったことすらなかった。赤司の隣で笑って、少し変わったと思いながらも、赤司が言うから大丈夫だと信じていた。



「わかるから、もうわかるから辛い、」



 例え勝利を収めたとしても、その先には喜びも何もない。ただ義務を果たしたという、それだけだ。もう、知ってる。



「なに、あと一週間ですよ。」



 珍しく酷く明るい声で、黒子は言った。自然と俯いていたが顔を上げると、彼の薄い色をした瞳が、優しく細められる。



「そっかぁ。」



 もつられるように笑って、コートにまた視線をやる。桐皇の選手も集まっており、その中には青峰の姿もあった。客席にいると黒子に気がついた彼は、一瞬固まったが、すぐにふいっと視線をそらした。



「そうだね。この試合が終わったら、この間まで大輝ちゃんの言っていたことをぜーんぶ、言ってあげないとね。」



 テープレコーダーみたいに繰り返すんだ、とは少し唇をとがらせる。



「それ、すごい嫌がらせですね。」

「そ。恥ずかしいでしょ?」



 は見たもの、聞いたものをそのまま覚えている。青峰の台詞も全て覚えているはずだ。負けた後それを言われれば、青峰としては酷く恥ずかしいことだろう。きっと怒りながら、を追いかけ回す。そしては逃げるのだ。

 きっと、黄瀬はと同じ台詞を言って、青峰を怒らせるだろう。黒子はそれを見ながら笑って、緑間は呆れた顔をする。桃井はもしかすると青峰を止めるかも知れない。赤司はきっと苦笑するはずだ。

 それは帝光中学で楽しかった頃と同じ。遠からず、帰ってくるかも知れない未来。



「きっと楽しいよ。」



 赤司の支配の中にいるには今や想像も出来ない、かつての日々。愛おしいそれが戻ってくると思わなければ、ひとりで心が壊れてしまいそうだ。

 はぎゅっと強く両手を組んで握りしめ、コートを眺める。そして祈るようにそれを額に押し当てた。



「・・・がんばる、」



 消えるような声音は、黒子の耳に確かに届く。が少し訝しむような視線をに向け、口を開いた。しかし声を発する前に、下からやってきた火神が二人に声をかける。



「久しぶりじゃねぇか。。」

「大我ちゃんだ、調子は?」

「良いぜ。今度こそ、リベンジだ。」




 火神の力強い様子に、はいつも通り楽しそうな笑みを浮べ、拳を突き出す。火神も同じ王に拳をつきあわせた。鏡の拳は大きく、の拳はとても小さい。大人と子供のようだ。



「ファイトだね。」

「あぁ、すぐにそこまで行くぜ。覚悟してろよ。」

「覚悟?」



 火神の言葉に、は首を傾げる。



「当たり前だろ。ぜってー負けねぇからな。」



 は洛山に所属する、洛山のバスケ部マネージャーだ。火神にとっては仲が良いとは言え、ライバルとして認識しているのだ。は今までいまいちそれを理解していなかったのだろう。



「勝つ?征くんと洛山に?」



 は不思議そうに何度かその丸い漆黒の瞳を瞬く。

そう。なんだかんだ言われても、想像もしたことがない可能性だ。実際に赤司が負けたこともないのだから、現実味もない。だが、赤司が負けると思うと何となく不愉快で、同時にそんなことあり得ないと叫びだしたい衝動に駆られる。



「おまえは洛山のマネージャーじゃん。おまえも全力出せよ。」



 火神はにっと笑いながら、にそう言った。

は別に洛山に愛着はなかったけれど、彼に言われてみればなんだか悪い気はしない。は、洛山のマネージャーだ。それ以上でも以下でもない。そのことをはあまり考えたことがなかった。



「・・・負けても知らないよ。」



 の膨大な記憶力と、それを分析する赤司の統計は、桃井のものよりも遥かに精度が高い。本気で誠凛の統計をすれば、当然誠凛が勝つのは難しくなる。だが、火神はそのまっすぐすぎる鋭い目でを見て笑った。



「望むところだ。」



よどみのないすがすがしい答えに、は漆黒の瞳をくるくるさせる。



「なんだよその、不思議そうな顔。」

「いや、なんか楽しいかなって、」




 まだその感情はよくわからない。はまだ、色々なことを理解し始めたばかりだ。まっすぐ向けられる挑戦が嬉しくて、胸にこみ上げる感情をどう表現して良いかわからない。

 純粋に嬉しいし、楽しいと思う。

 役に立たないと言われた。自立して自分で役に立とうと思ったのに、何もしなくていい、できなくて良い、隣にいるだけで良いとも言われた。

 でもは、決して彼から離れたいと思ったわけではない。いつも彼の役に立ちたかった。彼の隣に並んでいたかった。彼の心の負担を少しでも軽くしたかった。彼とともにいて、彼の隣で彼が勝つ助けをする、それが嬉しかった。

 彼が小手先の遊びで人の気持ちを踏みにじった時、そのすべてが壊れただけ。

 きっとはあの日、彼が人の気持ちを踏みにじるようなゲームさえしなければ、今も同じように赤司に手を貸し、喜びを感じていただろう。

 それでも、彼は全中の決勝の後、が泣きじゃくったことに、ショックを受けたのかもしれない。

 彼はあれ以降、人を踏みにじるような遊びは絶対にせず、それなりに人を尊重した。明らかに力の差がある時は、試合に出場しないという選択をするようになった。それは最低限、彼のに対する「配慮」だったのだろう。

 が逃げ回ったりしなくても、彼はできる限りの気持ちを守ろうと努力していた。

 それなのに、今までは赤司のことを全く見ていなかった。ただ自分の気持ちが大事で、自分の気持ちばかりを見て、ただ嘆いていた。自分の気持ちをどうにかするために。




「一線を越えたのかな。」




 赤司はが自分から離れることを、昔から恐れていた。前はもそれをよく理解していたというのに、いつの間にか忘れていた。彼を信じていなかった。だから彼も信じられなくなったのかもしれない。




「・・・征ちゃん。」



 征十郎という人間は、今も昔も変わらず、を望んでいる。



「うん。そうだね。」



 なら、は今度こそ、彼を守るために努力しなければならない。今までの心を守ろうと努力してくれた彼のために。



「がんばるよ。」



 それは先ほど口にした言葉とは全く異なる、我慢するためではない、前に進むための、言葉だ。



「もうそろそろ行くか、」

「そうですね。」



 火神と黒子が立ち上がる。それを眺めながら、は目を閉じた。

 ここから、始まる。長くて短い冬が、始まるのだ。



ein Ende mit Schrecken 悲惨な結末