「来なさい!」




 弟を腕に抱えた母が部屋を訪れ、戸惑うの手を引っ張って言ったのは、本当に突然のことだった。まだ5歳のは急ぐ人々の中、本当に母に引きずられるように避難所へと足を踏み入れた。

 翠の一族は水の国の湿地帯の地下に住んでおり、自給自足で暮らしていた。幼いはそれ以上のことを覚えていない。もしかすると里と複雑な関係にあったのかも知れないし、何かもめ事を抱えていたのかも知れないが、当時まだ5歳のは宗家とはいえ知るはずもなかった。




「こわいよ。おかあさん、」

「なんでこんな事に!!」




 今日重苦の一番奥にある避難所では、悲鳴を上げる人々や命乞いをする人、泣きじゃくる人々に溢れていて、騒然としていた。子どもたちを抱きしめる母親や、母子を庇おうとする父親、憤る男たち、ただなく老婆。

 敵は入り口に貼られた結界を見ると、その結界ごとすべてを凍てつかせようとしたのだろう。氷結の術の術式を壁に書き始めた。





「当主様は!?」

「助けて・・子どもだけでもっ、」





 酷い混乱と嘆きの中で、幼いながらもただならぬ物を感じたは、母に縋り付いた。母もどこか怯えたような瞳をしていて、と弟の瀧を抱きしめる腕に力を込める。それがますます不安を煽って、皆と同じように叫びだしたい衝動に駆られた。




「かあさま、こわい。」




 が訴えると、母ははっとしたようにを見て、柔らかく安心させるように酷く優しく、笑った。




「…大丈夫よ。」





 声は、震えていた。腕も震えていた。

 今殺されるという、死を前にしたその瞬間の母がどれほど恐怖を感じていたのか、今なら理解できる。彼女はまだ20歳を超したところだった。それでも彼女はを安心させるように完璧に笑って見せた。





「誰もいなくなるまで、動いては駄目よ。泣いても駄目。母様との約束よ。…瀧を、頼んだわ。」





 青みがかった漆黒の髪と柔らかく細められた濃い青の瞳、僅かに濡れた睫を未だにはよく覚えている。





「…、大好きよ。幸せになりなさい」





 優しく自分の髪を母の細い指がなぞっていく。それが、最後だった。

 氷結の術の完成とともに、辺りのすべてが凍り付く。今のならばすべての人をその術から守ることが出来ただろう。でもその時のには目の前の人を凍り付かせるその術を、どうしようもなく見守るしかなかった。

 翠としての、神の系譜としての体は、氷づけなどものともしない。

 と瀧は凍り付き、すべての命が奪われたその場所で、ただもう冷たくなった母に抱きつきながら、父が迎えに来るまで待っているしかなかった。

 泣けなかった、声も出なかった。ただ、ただ、哀しくてたまらなかった。

 そして15年もの長い間、忍具・蒼帝の中でと瀧は眠りについた。父はその間に死んだ。敵であった人々も、翠一族を抹殺した霧隠れの当事者だった忍たちもこの世を去っていた。

 目が覚めた時、と瀧を迎えたのは忍界大戦と、それによる長い平和。

 だが、ある意味で無理矢理に作られた平和は、そこに残った差別や悲しみを解消せぬままに、と瀧を迎え入れた。




 






 壁にもたれて、はため息をつく。

 既に部屋は真っ暗で、寝相の悪いナルトは布団からはみ出ていびきをかいて眠っている。既に窓の外の空には月が昇っており、夜半は既に過ぎている。だが、は全く眠れなかった。

 珍しい色合いの水色の髪は夜でもその色を変えることなく気味の悪い明るい光を放っている。




「こんなとこまで来て、わたし何やってるんだろ。」





 もうそろそろ木の葉隠れに来て一週間。水の国を出て二週間と言ったところだ。

 このアパートは木の葉隠れの神の系譜・炎の所有で、東宮のの好意と説明があって、ナルトも泊めてくれている。長い間こうして泊まることが迷惑である事を、ナルトが嫌な顔一つしなくてもわかっているつもりだ。

 こんな遠くまで家出をしてきた原因は、たった一言から始まった。




 ―――――――――――――――どうせ、あいつ化け物だろ。





 去年、は特別上忍になった。確かに人よりは早い昇進だったと思う。

 任務で一緒になる忍たちが、そう言って影でを罵る姿を、昔は見ないようにしていたが、任務に出る機会も増えてしまい、どうしても聞こえるようになったのだ。

 そしてとうとう、ある男が任務の前にを罵った。




 ―――――――――――――――おまえの父親は霧隠れを襲った人殺しじゃねぇか。




 確かにと瀧を忍具に封じる前に、父は忍具を手に入れるために、そして翠一族を皆殺しにした霧隠れの里への報復として、里を襲ったのだという。もちろん霧隠れの里の忍には沢山の死者が出た。その事実を、も知っている。

 だが、の母を、そして一族を皆殺しにしたのは、里なのだ。

 言ったのは若い男だった。鬱憤がたまっていたのかも知れない。違うことで苛々していたのかも知れない。それでも、にはどうしてもその暴言をどうしても許せなかった。

 結果的に大げんかとなった。




 ―――――――――――――――…両人を一週間の謹慎処分にします。





 大げんかで相手に怪我をさせたに、養母であるメイは悲しそうにの処分をそう告げた。も怪我をしていたし、手加減はしたのに、そして暴言を吐いたのは向こうなのに、どうしても納得出来なかった。

 水影としての立場を優先し、何も言ってくれない養母にも幻滅した。

 結局自分たちを養子にとったのも、人柱力のいない水の国にとって里の重要なパワーバランスの一つだからだろう。

 弟の瀧はそれなりに里とうまくやっているし、一応次世代に続く神の系譜として敬われている。

 しかしは所詮種なしと言われる、一代限りの神の系譜で、子どもを産んだとしても力を受け継ぐことはない。苦難の時代に多く生まれると言われる種なしは、要するに本当の神の系譜を生かすための盾だ。

 既に親族もなく、養母も当てにならず、弟にも頼ることが出来ず、ふと思い出したのは、同じ神の系譜であるがいつも言ってくれた言葉だった。




 ―――――――――――――――大好きだよ





 優しく、いつも自分にかけてくれた言葉が、忘れられなかった。彼女なら自分を受け入れてくれるかも知れないと思ったのだ。

 実際に彼女は何も言わなくても、多分どうしてがここに来たかを分かっているのだろう。

 木の葉隠れとしても水影の養女である自分を泊めるためにはそれなりの葛藤や水影のメイとの交渉があったはずで、最初は火影の綱手も反対したというが、それもが説明してくれて何とかクリアした。

 彼女がいったいどんな説明をしたのかは知らないが、メイも納得したのだという。





「…結局、彼女の人望よね。」




 と同じく神の系譜だが、5大国で里のアカデミーに通って忍になった初めての存在として有名だ。忍界大戦前から既に炎一族は里と和解、共存しており、たった数十年で里に溶け込み、大戦時には既に“木の葉最大の一族”として名を馳せていた。

 一度出産で忍をやめたが、現在は復帰して下忍の教育に携わっている。

 同期たちとも仲が良く、師である火影・綱手からの信頼も厚い。実力も折り紙付きだ。決して気の強い人物ではないが、にも優しい。他の神の系譜からの信頼も厚く、困りごとがあると皆が彼女の元に集まる。

 だって彼女に憧れて、化け物と罵られても我慢してやってきた。笑って来た、はずだった。




「どうしたんだってばよ?」




 いつの間に起きたのか、ナルトが不思議そうな顔でを見ている。




「眠れないのか?」

「べ、別に平気!」





 恥ずかし紛れに、は強気に返した。全く彼が身を起こしたことに気づかなかったなんて、忍として失格だ。物思いにふけっていたとはいえ、それはない。だが、彼は別段気にすることもなく、下の布団から膝を抱えているに手を伸ばした。




「なぁに落ち込んでるんだってばよ。」





 ナルトはの頭を軽く叩く。





「うるさいわね。良いの。放って置いて。」

「まったく、おまえは意地っ張りだなぁ。」





 わかっているのかいないのか、彼は呆れたように言って、笑った。




「ちっちゃい時みたいに添い寝してやろうか?」

「いらない。」





 小さい頃なら、素直に笑ってナルトの布団に突っ込めただろう。だが、今となっては大人になってしまい、それも出来ない。

 がどうしようもなくなって抱えた膝に顔を埋めようとしていると、腕を引っ張られてベッドから引きずり下ろされた。そのまま、ナルトの布団に引っ張り入れられる。





「…俺は眠いんだってばよ。」




 どこか寝ぼけた声で、ナルトはぼやく。彼の布団は暖かくて、は目をぱちくりさせていると、ぽんぽんと小さい頃にあやされたのと同じように背中を叩かれた。

 何とも言えない安心感がを包む。





「親父臭い。」

「うるさいってばよ。」





 憎まれ口を叩くと、ナルトは少し傷ついたのか目じりを下げて「もう寝ろよ。」と息を吐いた。





蝕む月