穢土転生された翠の最後の当主が言った言葉を、一人の神の系譜として、は絶対に忘れないだろう。




 ―――――――――――――お願いだ、お願いだから、娘を、息子を助けてくれっ、





 操られながら、水を操りながら、必死で命令に抗いながら、彼は縋るようにとイタチに告げた。




 ―――――――――――――あの子たちに、お願いだから、優しい未来をっ、生きられる未来をっ




 泣くような声音で穢土転生がの白炎によって解かれ、その体が崩れ落ちるまで何度も言いつのった彼の無念は並大抵の物では無かっただろう。

 それは人間として当たり前のことだった。平和に、優しい未来を遺すしかなかった子どもたちに願う気持ちは、誰だって一緒だろう。

 けれど一族を霧隠れの里にすべて奪われ、自分も里に狙われ、戦乱の中に一族という揺りかごもなくしてしまった二人の子どもを遺して死ぬしかなかった彼の思いや願いは、子どものいなかった、若いにも痛いほど伝わった。

 大戦で五大国が同盟を組んだことによって、炎一族以外の他の神の系譜がどんな扱いを受けていたのか、争いの中でどれほど多くが親や兄弟を亡くし、死んでいったかを知った。

 だからこそはあの日、神の系譜のひとつ、炎一族の東宮としてだけではなく、一人の人間として、里と融和せず独立性を保ってきた他の神の系譜たちをまとめて、絶対に二度と不幸な目に遭わせたりしないと心に決めたのだ。




「珍しいな、端近で酒なんて。」





 のんびりと御簾を上げて夜に浮かぶ庭と池を眺めていると、夫のイタチが笑ってやってきた。






「んー、かも?」







 は軽く小首を傾げてイタチに頷いてみせる。その拍子に長い紺色の髪がさらりと滑り落ちた。

 もうすぐ夏が近いので虫の声が聞こえる。蝉ほどうるさくはないが静かな虫の声は酷く落ち着く。子どもたちでいつも騒がしい東の対屋はいつの間にか静まりかえっていて、心地が良い静けさの中にたまに池の鯉がはねる音がした。




「どうしたんだ?」





 イタチはの側に座り、の手から酒の入ったコップを取り上げる。

 祝い事や飲み会では飲むが、はあまり酒を飲まない。弱いわけではないが家で飲むことはほとんどないので、不思議に思ったのだろう。





「これはね、美味しい舶来ものの葡萄酒なんだよ。甘くて飲みやすいの。」




 は笑ってイタチに瓶を見せる。イタチはコップの中身を改めて月にかざして確認してから、その液体を煽った。





「美味しいでしょ?」

「少し甘いな。」

「そう?イタチが少し年寄りになったんじゃないの?」





 イタチは甘味が好みなくせに、酒は辛口の方が好きだ。対しては全体的に甘党で、酒も甘いものの方を好む。

 が笑うと、イタチも笑っての頭を軽く指でつついた。






「なんかあっという間だったね。」

「そうだな。」





 忍界大戦が終わってすぐ、とイタチは結婚した。

 二人の結婚は今まで争い続けていたうちは一族と千手一族の血を繋げるものであると同時に、里とうちは一族の和解の象徴でもあった。五影や各国の手練れの忍もこぞって出席したため、大がかりなものだった。

 色々あったが友人たちに支えられ、今では4人の子どもをもつ6人家族という大所帯だ。の両親、祖母も対屋は違えど同じ敷地に同居しているため、全部で九人。夕飯時にはナルトやサイ、サスケも必ずやってくる。

 子どもたちは偉大で、はしゃぎ、よく話すため、いつも笑いが絶えない明るい家庭だ。

 今年には27歳になった。イタチの誕生日はもう先月過ぎていて、30を超した。あの忍界大戦から、すでに10年以上の月日が過ぎたというのに、昨日のように覚えていることがいくつもある。




は悩んでいるみたいだな。」





 イタチはの肩を引き寄せて、言う。




「…うん。とても心配だよ。」





 は目を伏せて、縋るように抱きついてきた彼女を思い出す。

 何があったのか、は深く彼女に聞いていない。だが、水影からある程度の事情は聞いており、また同じ神の系譜であるが故にの心許なさも理解していた。


 自分が誰であるか、何者であるのか、それはもまた16,7歳の頃に抱いた疑問だった。

 には、いつも自分を心から愛してくれる両親がおり、恋人のイタチや親友のサクラやナルトがいて、いつもに愛情を与え、支え続けてくれていた。

 自分は確かに忍だが、兵器でも武器でもない。自分が求められているのは力ではなく、自分だからだと、思えた。家族や友人が与えてくれる愛情が、にそう思わせてくれた。


 だが、は違う。

 既に両親はなく、弟は違う道を歩み出している。里の忍はの父が里を襲ったことを忘れておらず、彼女に対して遠慮なく冷たい目を向ける。それでも里は一種の武器や抑止力として彼女を求めている。

 武器としてしか求められない日々は、を簡単に蝕む。




 ―――――――――――――――ねえ、のこと、好き?





 に会うと、彼女はいつもにそう尋ねる。

 突然やってきた一週間前、霧隠れから来たばかりであったためぼろぼろの格好で、泣きそうな顔で、それでも最初ににそう問うた。

 いつもは元気で、生意気で、気が強くて、憎まれ口も叩いてみせるは、の前では酷く素直だ。不安そうにゆらゆら揺れていた濃い青色の瞳は、疑うようにを見ていた。その目は間違いなく、己の存在価値すらも疑っていた。




 ―――――――――――――――わたしはいつでもが大好きだよ。




 恐ろしい力を持つ武器としてではなく、一人の子どもとして、は彼女を大切に思っている。そして何よりもは、その言葉が彼女を支えるであろう事を知っていた。

 自分は化け物なのか、ただの兵器でしかないのかと疑う自分の心を、両親がいつもくれていた「愛してる、大好きだよ」と言う言葉が、かき消してくれたことをは忘れたことはない。

 自分たちは確かに恐ろしい力を持っているかも知れない。

 でも求めているのはただ単に愛してくれる両親で、一緒に笑って、仲良くしてくれる親友で、信頼できる仲間だ。決して特別な物では無い。




「ごめんね。イタチにも心配かけちゃって。」




 はイタチの胸に手を当てて、彼の顔を見上げる。

 イタチが長期任務に言っていた間のことだったから、帰ってきた時を泊めることにしたと聞いて驚いたことだろう。

 実際に泊めているのはナルトだが、ナルトの住むアパートも所有は炎一族である事に変わりはなく、を預かる話し合いは結局か、イタチが矢面に出るしかなかった。今も水影はの帰還を望んでいるが、それをが留め続けている。




「別に悪いことをしているわけじゃない。それにおまえが優しいのは、結婚前から分かっていたしな。」





 イタチは苦笑して、を自分の腕で抱きしめる。





「優しいから、今は良い母親だ。」






 愛情をめいっぱい受けて育ったは、同じように子どもたちに対して愛情深い母親になった。

 幼い頃、両親が非常に厳しく、いつも大人としての行動や、良い社会的地位、成績を求められ、抱きしめて貰ったりといった当たり前の愛情が得られずに寂しい思いをしていたイタチはの両親に憧れ、同時にに憧れていた。

 大きな一族でありながら心からに愛情を注ぎ、礼儀作法や道理に外れない限りは誰がなんと言おうとの味方をし、の個性を認める両親に羨望の眼差しを向けていた。

 子どもが生まれた時、イタチは自分がしてもらえず歯がゆかったことをめいっぱい子どもに与えてやろうと思った。例え成績が悪かろうが、どんなにのんびりしていようが、困った子どもだろうが、愛情だけはめいっぱい与え、抱きしめてやろうと決めた。

 はいつも与えられてきたことの重要性を知り、子どもに同じものを与えてやりたいと思った。




「イタチも優しいよ。そして良い父親だよ。」




 は柔らかにイタチに微笑む。

 二人で作った家族はいつの間にか大きくなって、長男はもうすぐ中忍試験を受ける。彼はアカデミーに行かずすぐにナルトに師事したが、次男はアカデミーに通っている。

 それぞれが、それぞれの個性とやり方で大人になっていこうとしている。一族と里、そして両親である自分たちは優しく見守っている。支えてやれる。




「愛してるよ。大好き。」




 力ではなく、その心が、その体が、何よりも心から愛おしいのだ。が目を細めて言うと、イタチも笑って頷いた。




「あぁ、俺もだ。」





 辛くても、悲しくても、その言葉が互いを支え続けた。だからそれを子どもたちや他の自分たちの大切な人に与える。与えることが出来る。







「愛してるよ。」






 イタチが低い声でゆっくりというと、はイタチの背中に回した手でぽんぽんとイタチの背中を叩いた。

 本当に静かな夜だった。

緩慢たる月夜