ただ、目の前に澄んだ水をたたえる小さな川が見えた。綺麗な小川の向こうには花畑があって、はどうしてもそこに行きたい気分になった。水はあまり好きではないけれど、どうしても向こうに行きたい。
小川の丸い石に足を取られながらも、小川の方に歩み寄る。
「こっち、来ちゃ駄目よ。」
高い声が、注意する。顔を上げるととよく似た顔の女性がいた。
段々に切り取られた長い髪を一つに束ねた彼女は五咲きの花の入った着物を着ていて、年の頃もより年上のようだった。どうして自分とそっくりなのか、五咲きの花が蒼一族の家紋であることはわかるが、誰なのかは知らない。
さらさらと心地よい温かい風に、互いの紺色の髪が揺れている。
ぱちゃんと、小川の中で魚がはねたようで、音が聞こえて、は小川の水に手を触れた。少し冷たいけれど、ここは温かいので気持ちが良い。
小川も深くはないし、歩いて渡れそうだ
は先に自分が持っていた鞠をぽーんっと先に反対側に放り投げた。
「駄目。」
彼女はその鞠が小川に落ちないようにすぐに拾い上げて、もう一度、を諫めるように少し強い口調で言う。
「だって、気持ちが良いよ。」
冷たい水はただ心地が良くて、ただ向こう側の花畑に自分も行きたい。そう思ったは、彼女に反論した。すると彼女は酷く困った顔をして、小川の側に座った。がこちらに渡ってこないように、見張るつもりらしい。
「貴方はそっちにいるじゃない。わたしも行きたい。」
が頬を膨らませて言うが、彼女はやっぱり首を横に振る。
「わたしは、人を待ってるから、良いのよ。」
少し大きな声で、彼女は言った。は我が儘を諫められた気がして、足下にあった小さな小石を拾い上げて、放り投げる。
「貴方はここに来るにはまだ早いわ。お父さんとお母さんは?」
子どもに尋ねるように聞かれて、は小首を傾げる。
「あれ?」
自分の父親と母親は、誰だっただろうか。どんな顔をしていたのだろうか。そんな簡単なことすら思い出せなくてはこめかみを押さえる。
そもそも自分がどこから来たのかも覚えていなくては後ろを振り返る。だがそこに続くのはただ草の生えた道だ。小川へ続く道をが歩いてきた覚えもなく、その向こうに何があるのかもは覚えていない。
その道を戻りたい気持ちに一瞬なったけれど、酷くそれは怖いことの気がして、はまた小川の方に向き直った。
「帰りなさい。」
「…」
「帰る場所を、覚えていないの?」
彼女は静かな声音でに尋ねる。
帰る場所なんて、どこにあるんだろうか。は後ろを振り返って、呆然とした。途端にはここにいるのが酷く不安になった。どうやら小川の向こうには人がいるようだが、小川の反対側であるの近くには誰もいない。
帰る場所も覚えていない。
「仕方ない子ね。」
は彼女の質問に答えなかったが、彼女はの答えを理解したのか、小さく息を吐いた。
「こっち側は、嫌だよ。そっちに行っちゃ駄目?」
一人だけこちら側にいるのが怖くて、は彼女に懇願した。
小川はそれ程深くはないし、十分に泳げないでも渡れるだろう。それに花も咲いていてとても心地よさそうな場所だ。きっと日当たりも良いんだろう。反対側のこちらも確かに別に悪いところではなさそうだが、何となく後ろに引っ張られるようで恐ろしかった。
「駄目。」
彼女はの言葉を受け入れる気はないようだった。
ただ、厳しく言ったが、の話を聞いてくれる気はあるらしい。は目じりを下げて小川のへりに蹲る。
とはいえ、は何も覚えていないのだ。
「どうしてここに来たの?」
「なんにも、覚えてない。」
「あら、そう。ならどこに行きたいの?」
「そっち。」
「だーめ。それに本当にこちらに来たいの?」
「だって、後ろはなんか怖いから。」
背後の道が気になるのは本当だが、何やらとても怖い場所へと続いている気がするのだ。
道は一本しかないのだから、は向こうから来たのだろう。の帰る場所は向こうにあるだろうし、行ったことのある場所に続いているはずなのに、はどうしてもあちらに帰る気にはなれなかった。
「だめ?」
「鞠を返してあげるから、お帰りなさい。」
口調はゆったりとしているが、彼女は全くと言って良いほどに応じない。は仕方がないが、小川の向こうに行くことが出来なかった。
鞠を返して貰ってしまえば、きっと絶対に帰らなければならなくなるだろう。それが嫌で、は鞠を投げようとする彼女に受け取ろうと言う態度を見せなかった。
「わたしはね。ここで、大切な人を待ってるの。」
彼女は困ったように鞠を持ったまま、ぽつりと自分のことを話した。どうやら彼女はしっかり自分がどこから来たのか、覚えているらしい。
「どんな人?」
「困った人。」
「…」
いったいどんな人なんだろう、とがきょとんとしていると、彼女はにそっくりの顔で笑う。
「とても不器用で、とっても怖い人、でも、大切な人なの。」
彼女の優しい表情から、にも彼女がその人のことを本当に大切に思っていることが分かった。
胸が痛む。すべてを忘れてしまったにはそれが何故か分からないけれど、酷い痛みには顔をしかめた。
「貴方は萩に続く子どもでしょう?」
のことを、彼女はそういう。はその意味がよく分からずに首を傾げる。だって何も覚えていないのだから分かるはずもない。
それでも、彼女は続ける。
「貴方を待っている人は、きっとわたしとわたしの大切な人に続く子どもだから、わたしが貴方を通したら、怒られちゃう。」
彼女の細い手が、の後ろを示す。
が振り返ろうとしたその次の瞬間、後ろから伸びてきた腕に、抱きしめられた。気づかないうちに別の人が、小川の向こうからやってきたらしい。
は驚いて目を丸くする。
「帰るぞ。」
少しが予想していたより高いけれど、声変わりの終わった低い男の声だった。
「帰り、たくない。」
は心からそう呟いていた。
帰りたくない、後ろの道は怖い。それを覚えていないのにはとてもよく知っていた。すると、男はを抱きしめる腕を強くして、の首に顔を埋める。彼の固い髪がの首を撫でて少しくすぐったい。
「わかってる。だからもう、なにも苦しまなくて良い。オレが守るから。」
縋るように回されている手は、僅かに震えている。
はふっと彼が酷く可哀想で、その腕がすごく嬉しくて、心にわき上がる不思議な感情をどうしたら良いか分からなかった。
「またね。」
小川の向こうで座っていた女性がに手を振る。彼女はまだの鞠を持ったままだったが、サスケに強く引っ張られているため受け取ることも出来ない。
「あなたは?」
「わたしは結。貴方しか、止められないから。」
最後に彼女が言った言葉はよく分からなかったけれど、はただ後ろから引っ張ってくる腕に身を委ねるしかなかった。
帰還