目を覚ましたは、何も覚えていなかった。
「貴方は、だれ?」
心から不思議そうに紺色の瞳が尋ねてくるのを見て、サスケは涙が出そうになった。
―――――――――――――だぁれ?
本当に、本当に幼い頃、初めて会った時、は無邪気な瞳でそうサスケに尋ねた。
の目にはなんの悲しみも、苦しみもなくて、何にも追い詰められていなかった。外の害意は何も知らず、両親からも炎一族からも沢山の愛情を受けて育った、ただ無邪気で、何も知らない炎一族の体の弱いお姫様、それが彼女だった。
「オレは、サスケだ。」
サスケはの手を握って、教える。
「サスケ?」
「あぁ、おまえは自分の名前を覚えているか?」
「…覚えてない。」
問うと、は顎に手を当てて少し考えるそぶりを見せたが、首を横に振った。
「おまえは、だ。」
「?」
「あぁ、だ。オレはサスケ、おまえは。」
言葉を反芻する無邪気な瞳に、サスケは答える。
「わたし、何も覚えてない。」
は困ったように目尻を下げて、戸惑う。思い出すらもなくなってしまったことは悲しいのかも知れないが、それで良いのだと思う。あまりに思い詰め、追い詰められていた彼女の紺色の瞳には、今は何もない。
「辛かったから忘れてしまったんだ。思い出さなくて良い。」
サスケはの額に自分の額を合わせて、目の前の紺色の瞳に言う。
にとって、サスケと戦うことも、うちは一族を助けようと頑張ることも、イタチを守ろうと懸命に身を削り、考えることも、きっと酷い重荷だっただろう。元々は優しくて、戦うことは嫌いだった。
その優しくて無邪気なの心を奪ったのは、サスケであり、イタチであり、そして里だ。
「おまえは自由だ。」
はイタチを縛っていたのは自分だと言っていた。
でもサスケは、は自分自身を縛り付けていたのだと思う。希少な能力を持つが故に里がの能力を必要とし、そのことによっては否応なしに戦いにかり出され、追い詰められていく。力を持つが故に恐れられ、利用される。
の力は確かに誰もが欲するほどに希少なもので、から当たり前の生活を奪っていく。
「悲しすぎたんだ。」
サスケはの頬にそっと触れる。
前に触れた時と違って、の頬は柔らかくて温かい。堪えきれなくなって、サスケはの頭を自分の方に抱き寄せた。
冷たかった体は今は温かくて、やはり幼い時と変わらず、小柄な体はサスケよりもずっと体温が高い。泥のように冷たく、重たい体ではなく、温かくて、軽い体が今は腕の中にある。彼女が生きていることが、間違いなく確認できて、サスケは深く安堵の息を吐いた。
「あったかい。」
は別に不安を覚えていないのか、すりっとサスケの肩に頬をすり寄せる。
何年も離れていた、求めて続けていたサスケが傍にいることに、無意識に安心を覚えているのかも知れない。それが三年間の彼女の苦しみを示しているようで、サスケはの背中をそっと撫でた。
「オレがおまえに、全部返してやる。」
はきっと戦いのない世界を望んでいる。
愛しいイタチがいて、優しい両親がいて、大きくて穏やかな一族があって、そこがの帰る場所だ。今は覚えていないかも知れないけれど、きっと何よりもそれを望んでいたからこそ、ダンゾウに利用された。里に出仕し、忍として戦ってきた。
だから、サスケはそのすべてを取り戻してやろうと思う。
彼女の大切なイタチを傷つけた、苦しめたものなどいらない。兄である彼が自分を里よりも、そして大切なの一族である炎一族や里より大切だと思ってくれたように、サスケにとっても、とイタチの命は、すべてを知った今では何よりも重たい。
彼女とイタチにとって必要なのはきっと、里ではない、一族だけだ。里はイタチを利用し、を利用し続けてきた。本来ならば背負う必要の無い物を、背負わせてきた。
「…?」
はサスケの言うことがよく分からないのか、少し身を離すと、不思議そうにサスケを見上げていた。その紺色の瞳は、昔の無邪気さをたたえている。
「おまえは、本当にいつも何も知らないな。」
サスケは小さく笑って、に言った。
幼い頃から屋敷の中で、ろくにアカデミーに行くこともなく育っていたは、記憶力は良かったが勉強も遅れがちで、ものを知らない子どもだった。無理をして遠出した時に、トカゲを恐竜だと言った時には驚いたものだった。
今の彼女は覚えていないが、あまりにも馴染みのもので、サスケは笑う。
「ひとまず、しばらくはあまり動くなよ。」
酷い傷はの体に残ったもので、サソリがある程度は治したり、縫ったりしたとは言え、腹にはしっかり草薙剣の傷があった。肩のサスケが突き刺した傷も残っている。魂は彼女の体に戻され、何とか助かったがそれも完璧なものなのかも分からない。
サスケが写輪眼で暁の人間を操り、その命と引き替えにを蘇らせただけだ。
「腹は、痛くないか?」
「痛い、けど。」
は自分の腹を少し撫でて、改めて見て言う。あまりに素直な答えに、思わずサスケは笑ってしまった。
久しぶりにこんな馬鹿みたいな会話をしている気がする。
「しばらくオレも身を隠す。おまえもだ。」
何も覚えていないらしいが、生活習慣くらいは教えなければならない。
を一度殺したことによって、サスケは新しい“目”を手に入れた。それの定着のためにもマダラからは少し休むように言われていた。正直ダンゾウを即殺しに行きたい気持ちはあるが、回復次第、八尾を捕らえるように言われているし、それが終わればダンゾウを殺すのにも協力してもらう予定だ。
ダンゾウは暗部を取り仕切っていた重鎮の男で、過激派。うちは一族の反乱の折に多くの人間を皆殺しにし、イタチを利用した張本人である。また、暗部において穏健派であるの父で斎の政敵でもあった。
マダラの言うとおり反乱を煽り、うちは一族を滅ぼすことを望んでいたのが彼ならば、サスケに殺される理由が十分にある。
「わたしはここに帰るの?」
は不思議そうにサスケを見上げる。
「…今は、な。」
サスケはの頭をぽんぽんと撫でて、そう答えた。
イタチはの鳳凰を持っているし、のチャクラを間接的に管理しているから、サスケとの交戦にも気づいただろうし、おそらくがサスケに殺されたこと、そして生き返ったことにも気づいているだろうと思う。
の帰る場所がイタチなのかどうかは、サスケにははっきりと言うことは出来ない。
それでも彼女には彼女を愛する両親がいて、炎一族がある限り彼女の帰る場所はそこなのだろう。一族は東宮である彼女のあるがままを望んでいる。に負担もかけないし、あるがままにを受け入れている。彼女の両親も同じだ。
炎一族だけは彼女をこれほどに追い詰めることはなかっただろう。
「そうだね。サスケが迎えに来てくれたんだもんね」
は嬉しそうに笑う。サスケはから目をそらすことしか出来なかった。
彼女をそこまで追い詰めたのは確かに周囲だったかも知れないが、直接的に彼女を追い詰め、殺したのは間違いなくサスケなのだ。今は生き返ったとは言え、一度は彼女を死に追いやった。サソリが“方法”を教えてくれなければ、はこのまま死んでいたのだ。
迎えに行ったなんて、優しいものでは無い。彼女が自分を憎んでも良いもの。
それでもは憎しみなんて知らない。悲しみしか知らない。の悲しみに満たされていた世界のすべてが、彼女の記憶からなくなったのならば、思い出が消えてしまったのだとしても、サスケはそれを歓迎する。
「あぁ、オレが守る。オレが傍にいるよ。」
悲しまないで済むように、彼女が笑っていられるように。
そしていつか誰かに断罪されるとすれば、兄であるイタチであれば良いと、サスケは心から思う。そのためにも、を一度手にかけたことは、きっと悪いことではなかったはずだ。
今度は守ってみせると、サスケはぐっと拳を握りしめた。
懺悔