イタチが斎の傍まで退いたと同時に、サスケも間合いをとるべくや香燐の傍まで下がった。
はやりとりについて行けず、水月の隣でじっとしていたが、サスケが近くに着地した途端、サスケの服を掴んだ。
「だ、だめだよ。」
珍しくが声を張る。
「?」
サスケはが過去を思い出したのかと訝しむが、その目はサスケへの敵意を抱いてはおらず、ただ戸惑いに揺れていた。
「戻ろう。戻ろうよ。」
「?」
「駄目だよ、だめ、そのお兄ちゃんと戦っちゃただめだよ。駄目、だめ、だから、」
必死で言いつのるその言葉の意味を、は理解しているのだろうか。
サスケがを見下ろすと、の紺色の瞳がゆらゆらと潤んで水面のように揺れていた。その瞳の向こうにあるのは、記憶の泉の奥底にある感情だ。
「…?」
「駄目、だめ、やだ、」
反芻していた言葉が、唐突に変わる。
駄目、から、嫌、に変わったのを聞いて、サスケは表情を歪めた。には記憶はない。イタチのことを覚えてもいない。それでも、サスケとイタチに兄弟で争って欲しくはないという、根本的な精神は残っているのだ。
すべてを忘れても、忘れられない感情がそこにある。
「…」
サスケがどれほどを大切に思っても、すべての記憶を消してやったとしても、イタチの傍から離しても、の心の中には今もを苦しめ、死を恐れなくなるほど苛んだ感情があり続ける。そしては苦しみを孕んだイタチを思うその感情を忘れられないのだ。そしてその感情が、イタチを大切だと叫ぶのだろう。
「やめて、やめてよ、」
サスケの服を掴んで必死で言いつのるに、サスケは哀れみの目を向ける。
「忘れて良いと、言ったのにな。」
結局は、忘れられないのだ。死んでも良いと思うほど追い詰められたその感情を忘れられない。根底にあり続けるその感情を捨てられない。
「連れて行け、合流場所で。」
サスケはの手をふりほどき、水月に言う。
「え、良いの?」
「どうせ、斎さんを倒さないと、いつまでも追ってこられる。香燐と水月は先に行け。重吾はオレと来い。」
「わかった。」
どちらにしても、イタチと斎二人相手では簡単には逃がしてもらえない。鬼鮫とサソリでもあっても、二人を完全に倒すことは難しいはずだ。ましてやイタチは間違いなくあのの鳳凰を保有して自由に使えるはずだ。
今まで使うそぶりを見せたことはなかったが、の事になれば使う可能性が高い。
ましてやイタチは万華鏡写輪眼を持っている可能性が高く、そうなれば鬼鮫やサソリだけでは荷が重い。まだ万華鏡写輪眼の使い方に慣れていないのは不安もあるが、それでもサスケがここで逃げるわけにはいかなかった。
「さ、」
はふりほどかれた手でもう一度サスケの服を掴む。
「だ、だめ、だめだよ。」
「…わかった。だから待ってろ。」
サスケはの髪をくしゃりと撫で、水月の方へと押し出す。
「オレも後から行く。」
に告げると、も一応は納得したのか、不安げながらもサスケの目をじっと見た。
「…絶対?」
「あぁ。後から行く。」
サスケが同じ言葉をもう一度言うと、やっとは香燐と水月に促される形で後ろへと下がる。それを確認してから、改めて自分を睨み付ける兄へと目を向けた。
兄から憎しみを受けるのは仕方がない。確かにを手にかけたのは自分なのだから。
しかしやはり愛した人間から向けられる憎しみはひどく悲しいもので、サスケはぐっと自分の胸を掴んだ。はいったいどんな思いで自分の前で笑って見せたのだろう。どんな気分でサスケの憎しみを受け流していたのか、
彼女の苦しみを思えば、大切な兄からの憎しみも当然のものに思えて、サスケは姿勢を正して刀を構えた。
「、行くぞ。」
香燐が少し慌てた様子で、の手を引っ張る。
少なくともサスケたちが戦っている間に、あの斎という男の透先眼の効果範囲から逃げなければならない。
「あ、あの、あの人たち、誰なのかな。」
は意を決して香燐と水月に尋ねる。
自分とそっくりの顔をした男の人と、サスケと同じ赤い目をした、の夢の中で出てきたお兄さん。にはそれが誰なのか覚えていないので分からないが、きっと自分に関係がある人なのだろう。それは間違いない。
そして、お兄さんはサスケに言った。
――――――――――――そのために、を殺したのか。
は、自分のことだ。
はここで生きている。死んではいない。なのに、彼はどうしてを殺したと言ったのだろう。サスケはそうだと言ったけれど、はサスケに殺されたのだろうか。どうしては記憶がないのだろうか。彼らは誰なのだろうか。
一気に疑問のすべてが噴出する。
「わ、わたし、は、誰、」
一体誰だ。誰だったのだ。
今までサスケの言葉で曖昧にあいまいに存在することを許されていた“自分”に対する疑問が一気にこみ上げてきて、心許なくなる。
「あんたは、あんただろ。」
香燐がどこか冷たい、それでいて強い口調でに言う。
「あんたは記憶があっても、なくても一人だろ。」
記憶をなくしたからと言って別人になるわけではない。なれるわけでもない。過去にも未来にも現在にも、という人間は一人しかおらず、代わりもいない。
自分が誰かなんて答えは、決まり切っている。
「わっ、」
考え事をしていたは足下の小さな石に蹴躓く。咄嗟に手を掴んでいた香燐がその手を上に上げたため、何とかこけることは免れたが、呆れたように水月が振り返る。
「まったく、君って子は」
鈍くさい、とサスケがいないのを良いことに言おうとし時、水月は気づいてを自分の後ろに庇った。
「鳥獣戯画!」
声と共に、横から大きな絵で出来た虎が水月に襲いかかる。
「わっ、」
にも小さな網のようなものが辺りを囲むように襲いかかったが、それをの肩にいた白炎の蝶がはじき飛ばす。網はただの墨になってぼたぼたとの足下に落ちた。
しかしが尻餅をついたことがいけなかったのだろう。
「しゃーんなろー!!」
の足下にガラス玉が投げつけられる。
「え、え、」
が戸惑っている間に、割れたガラス玉から紐のようにすら見える小さな文字の書かれた術式が広がり、の周りを取り囲む。
「な、何、」
何も分からないままにのチャクラが封じられたのか、ぐっと体全体が重くなる。
元々記憶を忘れ、チャクラコントロールを忘れても、無意識のうちに幼い頃から莫大なチャクラを抱えるは、チャクラで足りない筋力をつぎ足している。チャクラが封じられればの身体能力は大きな打撃を受け、機能を停止する。
立ち上がれなくなったは、へたりとそのまま座り込んだ。
「!」
香燐がの方へ歩み寄ろうとするが、その前にサクラが立ちふさがる。それを見ながら、は重力に引っ張られるように地面へと倒れ伏し、気を失った。
忘却