この日、イタチは何度もため息をつきかけて、思わず飲み込むということを繰り返していた。

 感情を表に出してはならない。



 初歩の初歩の話だ。


 イタチの師で鈍くさい斎ですら、日頃からへらへら笑っておかげで本当に馬鹿なのか、賢いのか、善悪の区別が
ついているのかすらわからない。

 この間も不幸をひけらかすおばさんに捕まり、涙ぐんで金を渡していた。

 おばさんの話を信じるならば、彼女は不幸なことに両親を早くに亡くし、奉公先で虐待に遭い、主人に慰め者に
され、躯が悪くなったら追い出されたといっていたが、どこも悪いところはなさそうだったし、イタチが問い詰め
れば忍並みに脱兎のごとく逃げる体力が残っていたから、嘘だろう。


 なのに斎といったら本気なのか冗談なのか、お金を渡すのだから始末に負えない。

 しかし、それだけ騙されても苛々するようなことに出会っても、へらへら笑える彼は、ある意味凄いと今日初め
て思った。

 いつも人当たりよく、大人からも同年代からもかなりの高評価をもらっているイタチは、自分の忍耐がどこまで
続くかを試されているような気さえした。



 隣にはではない女がいる。



 腕にへばりついてくる女に、イタチはもう疲れ果てていた。

 朝からこの女に連れ回されているのだ。


 イタチの任務は短冊街の重鎮の娘であるこの女から情報を聞き出すことだ。


 彼女の父親が、木の葉と手を組んでいるはずなのに、他の国ともコンタクトを取っているという噂がまことしや
かに流れたのだ。

 だが、おおっぴらに相手を疑い、実際にただの噂だった場合に「あぁ、間違いました」ですまないのが政治であ
る。

 だから木の葉は忍をうまく使って聞き出そうという訳だ。

 とはいえ、イタチはこの女から情報を聞き出そうとしているが、他の忍がまた別の方法で情報収集をしている。

 特に彼女の母親からの情報は有力そう、らしい。


 イタチが失敗しようが成功しようが正直どこにも影響しないというのが、またイタチのやる気を削いでいた。







「ねぇイタチさん、この服どう思います?」








 にこやかに女が尋ねる。

 緋色の着物は仕立ての良い物ではないが、柄付けが蝶で綺麗な物だった。






「良いと思いますよ。」






 イタチは迷わずそう返していた。

 緋色は鮮やかだが、絵柄の配置のせいか、柔らかに目に入ってくる着物は、女に似合うとは思えなかったが、
の物には良いかもしれない。

 きっとの雰囲気にぴたりだろう。


 女は嬉しそうな顔をしたが、別に彼女に良いと思った訳じゃない。

 イタチはひとり悪態をついた。

 結局、彼女はその着物を購入せず、他の着物を大量に購入して店を出た。


 どうやら相当なお金持ちらしい。


 だが、金持ちなんて言ったら、もそうだ。

 の家はこの女の家の五倍以上はあるし、歴史も深い。

 お金だって持っているだろうが偉ぶる様子はないし、あまり使わない。


 イタチの隣で騒いでいる金遣いの荒い女は、今日一日つきあってわかったが頭は頗る軽いらしい。


 父親の仕事についてちっとも知らない。

 これではイタチがこの女につきあってやる理由はないはずだ。

 なんて無駄な一日を過ごしているのかと、イタチはぼんやり空を見上げる。

 どうせ今日が終われば、ある程度の答えは出ているだろう。

 今日一日、我慢すれば終わる。



 これも仕事の一部だ。



 イタチが必死で自分の忍耐を試し、我慢していた時、女が道を振り向いた。

 なんだろうとイタチも振り向く。

 そこにはがいた。






「ぁ、」





 目があった途端、傷ついた顔をしては俯いてしまう。


 ずきりと、心が痛む。

 に見られたくなくて短冊街に来たというのに、なんでがこんなところにいるのだ。

 僅かな逡巡の後、ふっと思い出す。






『あのねー、サクラたちが誘ってくれて、一緒にお泊まり行くのー。』






 友達とのお泊まりなんて、初めてだろう。

 病弱で旅行にもほとんどいったことがないだ。

 嬉しくてたまらないといった様子で、荷物を作っていたのを思い出す。



 イタチを見たの伏せられた双眸が独特の愁いをたたえている。

 違う、これは任務なんだ。


 叫びたい声を飲み込んで、女を伺うと、楽しそうに笑っていた。

 どうやらがイタチの婚約者であることを知っているらしい。


 女はイタチの手を引いて、の方に軽い足取りで向かう。

 の友人や、事情を知っているであろう紅が、の手を引っ張っている。


 早く行ってくれ。


 そう思ったが、は俯いたまま動かない。






「あらあら、お姫様じゃないの。」






 女が得意げに、甲高い声音でに声をかける。

 紅が、後で説明してやるから浅慮な行動に出るなと、イタチを睨み付けている。



 は顔を上げず、ただ黙っている。



 元々おとなしい子で、病弱でほとんど外に出ていなかったため、悪意を知らない。

 あからさまな悪意は、恐怖でしかないだろう。


 が嫉妬というものを知っているかは知らないが、目があった時の傷ついた瞳から、わかっている。 

 耐えきれずイタチは女の後ろ姿を鋭い瞳で見つめる。



 これ以上もう、何も言ってくれるな。



 しかし、黙り込んだを、女は嘲った。






「家柄だけの許嫁さんは、言葉も喋れないのね。」






 の肩が大きくびくりと揺れる。

「あんたっ」

 の隣にいた桃色の髪の少女が、毅然とした態度で反論に出ようとしたが、隣のが震えた声を漏らしたことで
言葉を止める。

「ぁ・・・・ぅ。」

 震えた、堪えるような小さな声。

 ぱたぱたと白く輝く蝶が、鱗粉を飛ばす。

「ぅ、ふぇ、・・・・」

 嗚咽が、抑えきれずに溢れる。

 僅かにあげたの紺色の瞳には、いっぱいの涙が溜まっている。

「ひっ、ふぇえ、」

 もう限界だとでも言うように、が大きな声で泣き出した。

 悲痛な声があたりに響き渡る。

 通行人が足を止め、何事かと振り返る。

 するとはへたりと座り込んで、ますます激しく泣き出した。






「まぁ、泣けばすむとでも思ってるの?」







 女がが泣いたことに満足げに笑って、非難めいた言葉を吐く。

 その言葉に、イタチは自分の限界を感じた。






「やってられるか。」






 イタチは呟いて、遠慮なく女の背中を蹴りとばす。






「きゃっ!!!」






 一応手加減はしたが、勢いで女は前のめりに倒れた。

 だが、助けはしない。構うことはない。


 を庇おうとしていた、サクラたちはイタチの行動を呆然と見ている。






「イタチ!!」






 紅は目を点にしていたが、完全に任務放棄したイタチを怒鳴りつける。






「何してるかわかってるの!?」

「わかってるさ。あほくさ。」






 我慢はもう限界だ。






「俺はを守るため忍をやっているんであって、傷つけるんなら興味はない。」






 イタチははっきりとそう言って、座り込んでいるに手を伸ばす。

 そこまで断言されてしまっては、誰も言う言葉がない。


 むしろ彼の行動はいっそ見ていて清々しく、紅は何も言う気をなくした。






「貴方、わたくしにこんなことをしてどうなるかわかってるの!?」






 女が先ほどとは全く違う鬼のような形相で叫ぶが、イタチはふっと笑った。






「どうなるって言うんだ。どうこうできるものならしてみろ。」






 この女如きが出来ることなど限られている。


 例え傭兵を雇おうと、イタチは負けない。


 その上イタチは腐っても里有数の名家うちは一族の嫡男であり、の許嫁だ。

 短冊街のたくさんいる重鎮のひとりの娘に、何が出来るというのだろう。

 イタチはをそっと抱き上げる。

 はあまりの驚きに涙を忘れたようで、イタチの腕の中におとなしく収まった。






「ごめんな。」






 イタチはをあやすように、とんとんと背中を叩く。

 任務とはいえ、傷つけてしまったことに変わりはない。






「ねぇ、・・・・わたしのことすき?」






 は不安そうにイタチを見上げる。






「もちろん、世界で一番好きだ。」






 恥ずかしがることも、臆面も見せずはっきりと告げる。

 は安心したように、イタチの肩に頬を押しつけ、温もりを感じようとする。

 イタチはそっとを抱く腕に力を込め、の額に謝罪の意味も込めて口付けた。












( ころがること おちること )