やはり、青白宮と共に対屋を伺うと、あっさりと入れてもらえた。

 侍女達はイタチの姿に難色を示したが、それでも青白宮がいるので断られることはなかった。

 西の対屋は、夏の装いだった。


 渡殿から池を望めば見事な杜若が咲き乱れる。

 炎一族邸においては夏の初めになるとたくさん咲く花だが、一際多い。

 奥の鏡台には玉簾の華が飾られ、対屋の中には淡い青色の几帳がたてられている。



 の部屋にも似たような色合いの物があるが、この几帳はホタルと露草が刺繍されており、夏ら
しさを感じさせる。

 漆塗りの二階厨子(小さな棚とタンスがくっついたような物)は螺鈿細工で、大船をいくつも海
に浮かべて鉾などをたてている姿が描かれていた。


 祭りか何かなのだろうか、

 イタチはやはり旧家の出であり、様々な昔の物に造詣も深い。

 そのため、よくの屋敷の家財道具にはそれぞれ由来があるため、よく蒼雪に聞いて回ったが、
これは一度も見たことのない品だ。


 思わずじっと見つめてしまう。





「興味が、あるのかえ、」





 イタチがそれをぼんやりと眺めていると、後ろから声がかかった。

 慌てて振り向くと、薄縹の絣の着物を着た風雪御前が立っている。





「あ、はい。祭りのようですが・・・」

「6月に遠き海で行われる競渡(けいと)。詳しき故は舶来物なりて、妾も知らぬ。」





 風雪御前は寂しそうに緩く青色の瞳を細め、するするとイタチの横を通り、向かい合う位置に座
った。

 その動作は洗練されており、優雅で美しい。





「青白宮、汝が彼の側を選するとは思わなし、」





 ふっと息を吐いて風雪御前は青白宮を見た。





「・・・彼は、良い人ですので。」





 青白宮は穏やかに笑って、イタチを見やる。

 風雪御前はまた一つため息をついて、横にあった脇息にもたれかかる。





「何故、それほどまでに彼に肩入れする。必要がありしや?」

「ありませんが、俺はが幸せならばそれで良いのです。イタチくんの話をするは、幸せそうで
すから。」





 だから、青白宮はイタチに味方することに決めた。

 もちろんイタチを気に入っていると居るのも大いにあるが、体の弱い姪御のは、青白宮の目か
ら見ても、酷く不憫だった。

 だから、青白宮はよく彼女の様子を見に行ったし、蒼雪や斎のように里で忍として身を立てよう
と考えたこともない。



 同年代の友達もおらず、両親は忙しく傍におらず、ただただ苦しみ喘ぐ幼子。

 それを当たり前だと考え、不平一つ零さなかった。

 不満など何も知らぬ姿は、酷く、哀れだった。

 その彼女に笑顔を与えたのは、斎に連れられてたまたま屋敷を訪れたイタチだった。



 きょうは、いたちとあそんだの。おはなしをしてくれたの。



 目に見えて、イタチの話題が増えた。

 彼の話をするは本当に楽しそうで、嬉しそうだった。

 逆に彼が来ない日は酷く寂しそうだった。

 彼が自分の家に家出してきた時のは、事態が理解できていないというところはあったが、イタ
チがいつも傍にいるようになることを、本当に歓迎していた。



 彼女からイタチを引き離すこと。

 それが例え炎一族のためになろうとも、のためにはならない。


 青白宮はそのことをよく知っていた。


 風雪御前は胸元から扇子を出し、青白宮の話をかみしめるように聞いていたが、ふっと表情を曇
らせた。





「孫宮との睦まじきは、聞こえゆる。が、一族はそれでは収まらぬ。」





 宗主夫妻が“仲良し”だから一族がまとまるという訳ではない。


 一族とはそんな簡単な物ではないのだ。

 イタチは風雪御前の顔をまっすぐ見上げる。





「でしたら、何をしたら、何が出来たら、相応しいのですか。」





 凛とした低い声音が問う。





「どうしたら、の隣に立つことを認めてもらえるのですか。」





 イタチが、炎一族の者ではないことは、もう変えられない。

 でも、今から努力して出来ることなら、イタチはなんだってする。

 それで未来永劫の傍にいられる資格が手に入れられるなら、自分は・・・・、





「・・・・席を外したまえ、」






 しばし考え込んで、扇子をぱしっと音を立てて閉じた風雪御前は、青白宮に扇子を向ける。





「・・・・に、これ以上ないほど彼のことを頼まれてるんですけど。」

「取って食おうなどとは思うておらなんだ。」





 青白宮はかりかりと頭をかいて困った顔をして、イタチに目を向ける。





「大丈夫だ。」





 青白宮に頷くと、仕方なく彼は立ち上がった。

 だが、不安があるのだろう。





「いじめられたら、言いなよ。控えの間にいるから、叫ぶんだよ。」

「・・・・・虐めぬわ。はよぅ、ゆけ。」





 風雪御前がせかすと、渋々と言った様子で御簾をあげて退出する。

 その様子を確認して、大きく息を吐いた彼女は、改めてイタチを見た。





「汝、炎の宗主の婿など、やるものではなしや。」





 苦虫を百匹ほどかみつぶしたような顔で、彼女はそう言った。


 風雪御前が宗主に嫁いだのは彼女が12歳の時、

 風雪宮家の出身で何不自由なく育った蒼姫は、宗主の正妻となるべく女御として入内し、その翌
年中宮に祭り上げられた。 

 12歳では妻としてのつとめも果たせない。

 12歳の形ばかりの中宮に、周囲の目は冷ややかで、何度帰りたいと願ったかわからない。





「孫宮()は、穏やかなり、」




 ぽつりと呟いた言葉は、誰もが知ることだ。




「蒼雪とは、違いたりて、孫宮に、一族を負わせることはできなんだ。」





 は、おそらく一族を負うだけの能力はあるだろう。


 しかし、いくらイタチにチャクラを肩代わりしてもらったとはいえ、不安定で、非常に弱い。

 一族も跡取りとして育てることをせず、愛情をめいっぱい注ぐ両親に育てられた、本当にただの
少女だ。


 能力的には可能でも、精神的にはは宗主に相応しくない。

 それは風雪だけではなく、誰が見ても明らかだった。

 宗主に絶対の忠誠心を抱く一族の者は、何らに疑問を抱いてはいないが、おそらく、婿にかな
り期待しているだろう。

 斎の時は、あくまで宗主・蒼雪を補佐する婿であった。



 だが、はどうだろう。



 イタチを許嫁して、自ら宗主としてたつだろうか。

 彼女が宗主となって、一族を率いていけるのか。

 風雪にとっても一族の者にとっても、大きな疑問だった。





「汝ならば、いくらでも相手はおりしや。悪いことではなし。やめおけ。」





 古い一族に入るというのは簡単ではない。

 イタチは10代後半、まだ若い。

 うちはの嫡男とあれば、相手など幾らでも居るだろう。


 わざわざ大家の宗主となるべきの婿となることを選ぶ理由もない。

 おそらくイタチは、炎一族の全てを率いる羽目になるだろう。

 他家の出身でありながら、炎一族の頂点に立つことになるだろう。

 それは想像を絶する苦しみと、汚い物を孕む。



 とイタチが思い合っているとはいえ、それはまだ子供の戯れだ。


 今なら間に合う。


 風雪御前が訳もわからず宗主に嫁ぎ、数十年考え、疑い続けたこと。

 まだ風雪御前の実家は炎一族として利権をむさぼっており、自分も諦めがついたが、他家の人間
に背負わすには、あまりに重い。

 イタチは彼女の話を静かに聞いていたが、少し考えるそぶりを見せて、意を決したように口を開
いた。





「貴方は、幸せでは、なかったのですか?」





 イタチの質問に風雪御前は虚を突かれた顔をしたが、軽く扇子を振ってみせる。





「どうだろうの。蒼雪を産み、宗主の母となった。それは幸せではなきか?」

「答えを知るのは、貴方でしょう。」





 きれい事ばかりで一族が成り立っているわけではない。

 うちはより炎一族は綺麗だが、それでも、きれい事ばかりでないことを、イタチは知っているし
、わかってはいる。



 風雪御前は女達の戦いを、一族の裏を、すべて見てきたのだろう。

 辛いことも、一人で耐えてきたのだろう。 

 その苦労は、想像を絶する物だったはずだ。


 だから、





「俺は、にいろいろなことは背負わせたくない。汚い物を見て欲しくない。」

「それが、汝に重き役目を背負わせてもか?」

の傍にいられれば、俺はそれで幸せですから。」





 どれ程苦労したとしても、イタチはの傍にいられれば、幸せだ。


 幼い頃、斎の本を借りようと訪れた炎一族邸で、斎に抱かれて泣いていた小さな女の子。

 抱き上げた彼女の重さと、温もり。

 向けて来た、夜空と同じ紺色の潤んだ瞳。


 すがりつく小さな手。

 外を本当に何も知らない幼子の無垢な瞳は、不安にゆらゆら揺れていた。




 ―――――――は、いたちのおてて、だいすき、




 イタチが初めて人を殺した日、とうとう血にまみれてしまったその手に頬を寄せて告げた熱っぽ
い瞳も、悲しそうな笑顔も、覚えている。

 綺麗な、綺麗な



 守ってやらなければ。


 そう、誓うまでに、時間はかからなかった。

 自分はの傍にいられれば、幸せだ。


 どうせもう幾百、千の血にまみれたこの手がのために汚れることくらい、全然構わない。

 がその手が好きだと言って頬を寄せて、頭を撫でてとねだってくれる限り、自分は彼女の居場
所を手に入れるためになんだって出来ると思う。





「俺は、が幸せなら、それで良いですから。」





 が笑ってくれていれば、それで良い。


 その隣に自分がいられれば嬉しい。

 自分が炎一族を背負ってどうしていくのかはまだわからないけれど、に望まれるならば、どこ
まででも努力する。

 イタチは静かに目を閉じる。

 瞼の裏にはいつも変わらぬ笑顔で笑うがいる。





「・・・・幸せ、か。」




 ふぅっと息をついて風雪御前はイタチではない遠くあげられた御簾の外にある紫色の花を見つめ
る。

 庭の池の端に雅に佇む花弁は、風に揺れている。

 かつても美しかったであろう庭庭を眺めることが出来るようになったのは、夫であった宗主が死
んでからだった。





「綺麗だと、我が君もおおせように、」




 自分は、外に目を向ける心の余裕すらなかった。

 身分ばかり高い形ばかりの正妻として体面を保つのに必死で、ろくに夫の話も聞いていなかった
ように思う。





「お好きなのですか?」




 炎一族邸にはたくさん植えられている。

 庭には池ががあるので水回りに花を植えるのは当然だが、それにしても特別植える必要はない。

 イタチが尋ねると、風雪御前は首を振った。





「否、前の宗主・白縹が妾の輿入れからしばし後、菖蒲を多数植え申した。故はわからぬ。」





 紫色の花が自分のために植えられたと聞いた時、幼いながらに首を傾げた物だった。

 夫は口べたな男で、侍女が夫の付き人から人づてに聞いたその話は信じられなかったし、意味が
わからなかった。



 理由を幾度か聞こうと思ったが、結局聞けぬままに夫の方がなくなった。

 菖蒲の花言葉は信頼。


 信じるものの幸福。


 会ったばかりの女たらしの宗主を信じろと言うのかと随分と憤ったものだ。

 風雪御前はふっと自嘲してイタチを振り返ると、イタチが口元に手を当てて考え込んでいた。





「どうした?」

「いえ、それ、菖蒲じゃありません。杜若です。」





 イタチは小首を傾げて言う。





「間違い有りません。花に編み目がないのは、菖蒲じゃなくて杜若です。似てますけど。・・・前の宗
主様も、菖蒲と仰せだったのですか?」



 逆に尋ねられ、風雪御前は戸惑う。


 よく花弁を見てみれば、確かにイタチの言うとおりだ。

 知識としては知っていたが、菖蒲だと言われていたから、菖蒲だと思い込んでいた。





「花言葉は、“幸福な贈り物”です。」





 イタチが苦笑しながら付け足した言葉に、風雪御前は聞き入る。



 幸福、


 風雪御前がまだ蒼姫であった嫁ぐ前、幸せと感じることすら忘れる程幸福だった。



 何も知らぬ、姫君だった。


 だが、風雪女御と名乗り輿入れしてからは一時笑顔すら忘れる程、たたき落とされた。

 よく考えれば、せっせと宗主が杜若を植えだしたのはその頃だったかも知れない。




 ―――――――何をなさりですか?




 庭に出て自らスコップを片手にする夫を不審に思い尋ねると、彼は『植えている、』とだけ答え
た。


 そんなことはわかっている。


 問題はどうして宗主自ら庭師のまねごとをしているのかと言うことなのに、彼が答えるそぶりは
なかった。


 寡黙で無口で、大きな決めごとは必ず合議で決めるため、決断力がないようにも見えた。

 一族に望まれるがままに側室を多数持ち、そして側室との間に子をなした男。

 芸事ばかり龍笛を吹き、文芸に励み、ほとんど権力に興味を持たなかった。


 非常に淡泊な人だった。


 そのくせ蒼雪だけは酷くかわいがっていた。

 彼は何を思って自分の産んだ娘をかわいがったのか、今でもわからない。


 だが少なくとも、自分が思う以上に彼は、自分のことを気にかけてくれていたのかも知れない。





「逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし」





 会うことがないのならば、あの人を恨んだり、自分を嘆いたりすることもないのに、

 ぽつりと自分がかつて詠んだ、本に書かれた一首を口にする。





「憂いたと言うのに。」




 見えていない物が、たくさんあったのかも知れない。

 ただ単に思い込みの悲しみや嘆きをたくさん抱いていたのかも知れない。

 遠く、彼が吹いていた龍笛を思い出す。





「龍笛、聞きたくあるな。」




 よく、自分の琵琶に合わせて彼が吹いていた龍笛が懐かしくなる




「拙くて良ければ、吹きましょうか?」




 イタチが穏やかな笑顔で尋ねる。

 それに、風雪御前は僅かに目を見張ったが、鷹揚に頷き、ほほえみを返した。

遠き日の憧憬を