その貝あわせは、の母である蒼雪が買ってきた物だった。




「なに?」




 は丸い無邪気な瞳で尋ねて、貝殻をじっと見つめる。

 今まで食べていた蛤よりも二回り大きい貝の裏には文様の描かれた金箔が貼られ、絵と文字が
かかれている。


 着物を着た、貴族の絵柄は昔の歴史の本くらいでしか見たことがなくて、イタチは食い入るよ
うにその絵を見つめた。

 27組、54個ある貝にはそれぞれ一対になるように似たような絵と、上の句と下の句で対になる
一首が謳われていた。



 蒼雪が白い綺麗な手で二つ貝を拾い上げ、それを合わせる。


 一枚の貝には美しい桜と都の絵と、いにしえの奈良の都の八重桜、と文字が描かれている。

 もう一方の貝には桜と女性が描かれ、けふ九重ににおいゆるかな、とある。

 その貝は蒼雪の手の中でぴたりと合わさる。

 元々同じ貝だったのだ。




「これは様々な遊び方があるけれど、歌を覚えるもよし、伏せて絵柄の記憶を競うも良し。わか
りまして?」




 蒼雪は柔らかにそう言ったけれど、は首を傾げる。

 よくわかっていないようだ。


 幼いには神経衰弱は難しいのかも知れない。

 イタチが小さく微笑んでに説明する。




「全部裏向けて、ぴったり合う貝を見つけるんだ。」

「あう?」

「そうだ。その貝は絵が似てるんだ。」




 にもう一度蒼雪がもっていた貝を見せる。

 桜が同じことに気付いたはこくんと一つ頷いた。

 蒼雪は任務に出かけてやり方を教えるとすぐに出て行ってしまったが、とイタチはしばらく
貝遊びにふけった。

 だが、遊んでみると難しいようで、なかなか貝が合わない。





「いたち、ちがう。」





 がむくれた顔でそう言う。

 合わなかった貝を裏向けて、は退屈そうにイタチの膝にもたれかかった。

 最初のうちは退屈に身を任して眠ってしまうことも多かった。


 そういうようなことを何日も続けたわけだが、徐々には俳句や絵柄を覚えるようになった。

 幸いにもは記憶力が良い。

 あっという間に一度ひっくり返した貝も覚えられるようになって、5つも年上のイタチが危うい
ほどになった。


 イタチとて5つも年下のに負けるのは悔しいから、結構真面目に覚える。

 なかなか良い勝負をするので勝敗は一進一退。


 それは、いつもの朝だった。

 担当上忍である斎の家に泊まって、斎をたたき起こして任務にでかけるいつも通りの朝。




「ありえないですよ。先生。」  




 イタチは冷たい目で斎を見下ろし、言う。

 斎はもそもそと布団に潜り込んで首を振った。


 もう少し寝たいと訴えているのだが、そう言うわけにはいかない。




「ちちうえさま、だめー。」




 が、むっとした顔で布団を引っぺがす。


 まだ4歳と幼いでも、イタチがどうして斎を起こしているかなんてわかっている。

 いつも通りの光景だ。

 二人の攻撃に、斎はやっと起き上がった。




「あー、もう。どうせ僕が任務に遅刻したから、任務は中止でしょ。寝てても良いじゃない。」

「良くない。というか先生本当にあり得ないんですけど。忍としても人としても最悪ですね。」




 どこかで聞いたような台詞を、イタチがはっきりと言う。 

 酷い言葉ではあったが、それでもどうせ斎は気にしない。



 いつも通り布団を取り上げて畳む。


 畳んでしまえば、床では流石に寝ないだろう。

 斎はまだしつこく畳の上で転がって、はぁとため息をついた。

 仕方ないと言うふうに身を起こした斎は、はねた紺色の髪をそのままにもそもそと着替え始め
る。

 なんて担当上忍だとイタチが眉を寄せていると、視線を感じた。


 がくるりとした瞳でイタチを見上げて、笑っていた。

 子供の、可愛らしい無垢な笑み。

 無邪気な笑みが曇らないように、泣かないですむように、いつもそばにいたいと思う少女。


 いつからだろう、

 この幼い少女が自分の心の大部分を占めるようになったのは。




「今日の任務は午後で終わるはずだから、帰ってきたら一緒に貝あわせをしよう」




 イタチはの前に膝をついて約束する。




「ほんとう?」




 が嬉しそうに笑う。


 体の弱いにとってはこの屋敷が世界で、屋敷を訪れてくれるイタチが唯一の友達だ。

 悪意も、イタチの中にある独占したいと思う感情も知らないは、心から素直に喜ぶ。




「あぁ、すぐに帰ってこれるはずだから。」




 小さな指に自分の指を絡める。


 幸せそうなの笑顔が目の前に迫って、小さな手がすがりつくようにイタチに回される。

 の小さな躯をイタチは精一杯抱きしめた。


 心が満たされる。

 柔らかい、温かい、帰りたい場所。



















 だから、帰らないといけないと思った。

 何があっても帰らないといけない。


 血にまみれた手で地面を掴む。

 起き上がろうとして、血が自分の躯からこぼれ落ちるのを感じた。


 どうして自分が怪我をしているのか、もう覚えていなかった。

 無様に地面を這っていることなんてどうだって良かった。


 腕が躯を支える力を失い、顔を血だまりの中に突っ込む。

 自分の血なのか、人の血なのか、よくわからない。


 ただ、ここは嫌だと思った。

 冷たい何かが体中を駆け巡っていく。


 寒い、

 自分の躯からこぼれ落ちていく物と相反して、昨朝に抱いたの温もりを思い出す。




「イタチっ!」




 近いところで、斎の声が聞こえる。

 自分の躯の中からこぼれ落ちていた物がせき止められて、かわりに今度はすさまじい痛みが襲
ってくる。

 意識が、混濁する。

 苦しさに息を吐いて、またの姿を思い出す。


 駄目だ。


 イタチが帰らなかったら、が泣いてしまう。

 あの笑顔をくしゃくしゃに崩して、泣きじゃくるんだろう。



 屋敷でひとり待つの姿を思い出して、イタチはうっすらと重い瞼を上げる。


 視界に映るのはぼやけた現実。

 霞んだ目は、なかなか現実に戻ることが出来ない。

 駄目だ、こんなことでは。あの子の元に返らないと。



 ぼやけた視界に紺色が映る。


 の長い髪と同じ、

 辛いことがあった時、悲しいことがあった時、あの軽い、けれど温かい重みを胸に抱いて、顔
を埋めたさらりとした感触の紺色の髪。


 その紺色が本当はなんだったのか、イタチにはわからない。

 気付けば手を伸ばしていた。




「…・・…」




 乾いた唇で、血と共に懸命に名を呼ぶ。

 初めて殺した忍が呟いた花の名前を思い出す。


 それは愛した女の名前だったのか、それとも思いを寄せていた誰かか、わからない。

 けれど今、その気持ちが痛いほどよくわかった。


 伝えたいことがあった。


 もっと君が大人になってから伝えようと思っていた言葉が、ある。

 彼女が、そして自分がまだ幼いから、伝えられない言葉があった。



 一言、たった一言で良かったのだ。


 ぐっと紺色を握りしめる。

 柔らかな感触に、イタチは瞼をおろした。





 







 小さく呟いたつもりだった言葉は、言葉として唇から紡がれることはなかった。






( つなぎとめて つないで )