雪、



 そう少女を初めて呼んだのは、一つ年上の少年だった。


 宗家に出入りしていた予言を生業とする蒼一族の一人息子で、童顔で子供らしい笑顔の可愛い
子だった。

 男の子に可愛いなんて表現するのはおかしいのかも知れないけれど、そういう表現がよく似合っていた。


 風雪姫宮と、少女に与えられた宮号は母の生家風雪宮家と同じで、なんのひねりもない。

 元々宗家の子供に宮号以外の名前などないから、少女の名前は風雪と言うのが正しいと言える。

 寒々しい暖かみのないその名前が、少女は大嫌いだった。


 蒼一族の子息は、自分の名前が嫌いだと言う少女に、言った。




『じゃあ、僕は君を雪って呼ぶよ。』




 明るく言った彼の言葉に、少女はむっとした。

 冷たくて嫌いだと言っているのが、わからないのか、と。

 風雪と呼ばれようが、雪と呼ばれようが、寒々しいのに変わりあるまい。 


 そう反論すると、彼は違うよと子供っぽく頬を膨らませた。




『風雪は吹雪みたいで寒いけど、雪は綺麗じゃないか。』




 それに、雪はとけることで春を告げるんだよ。



 素敵じゃないかと、少年は笑った。


 無邪気な笑顔を今でも鮮明に覚えている。



 彼は少女にとっての春だった。

 自分を崇める冷たい一族の人間や、たくさんの父の妃の中で地位を求める母や、忙しくて構って
くれない父とは違う。

 温もりを持って、少女に無邪気に笑いかけてくれた。



 少女に春を運んだのは、雪の名前ではない。



 彼自身だった。




『雪、』



 年を重ねれば、少年は遠くなった。



 笑いかけてくれる彼が遠くなれば、春が遠くなった気がした。

 自分で追いかければ良いと気付くまでに時間がかかった。 


 どうしても、その春を、自分だけの物にしたかった。

 すべてを捨てて手を伸ばさなければいけないと知っていた。


 禁断の春。

 叶わないと言われる初恋。


 それでも、彼しかなかった。


 遠い春に手を伸ばさなければ少女の春はずっと遠いまま、冷たい雪に閉ざされたまま一生を終え
てしまう。



 彼を自分だけの春にしたかった。






 すべてを捨て去るのは、紙ペラ一枚の契約書だった。



「私、里の忍として、帰属することに決めましたの。」




 雪はクシナやミナト、そして斎と並ぶ鍋の席で、突然そう言った。

 斎はぽたりとお箸を机の上に取りこぼし、ミナトは火影として聞いていなかったのか、目をまん
丸にした。




「あら、そう。」




 後から夕食にやってきたクシナだけがあまりにあっさりと返事をする。




「おめでとう。これで同僚ね。」

「そうですわ。クシナは先輩になるわけですし、よろしくお願いしますね。」

「もちろんよ。何でも聞いて頂戴。」

「心強いですわ、」




 あまりに飲み込みの早い女性陣に男性陣はついてこられない。

 斎とミナトは顔を見合わせ、それから口を開いた。




「いや、里の忍に、なるの?」





 斎は信じられないと言うように、おずおずと尋ねる。




「そうですわ。実は今日伝書鳩を出しておきましたの。」

「よく、受理されたね。」

「綱手様の推薦書付きですもの。当然ですわ。」




 雪の師は綱手だ。

 今は故あって里を離れているが、上層部への影響力は大きい。


 彼女の推薦書はかなり効いただろう。

 今どこを歩いているのかわからない、放浪している綱手の推薦書を持っていると言うことは、雪
はかなり前から考えていたのかも知れない。




「なんで?」




 斎はそう聞かずにはいられなかった。


 雪は炎一族の東宮で、炎一族に戻れば食べていけるし、財産も莫大である。

 里に帰属しなくても生きていける。

 なのに、彼女は里の忍として生きる道を選んだと言うことだ。




「言っておくけど、忍なんて良いものじゃないよ?君が思っているほど楽なもんじゃない。世間知
らずの雪じゃすぐに戻ってくるよ。」




 斎は呆れたように箸をくるりと回す。




「だからですわ。」




 雪は斎の言葉に怒らず、頷いて認める。




「だから、私、勉強しようと思いますの。炎一族の東宮じゃなくて、一人の人間として生きてみた
いんですの。」




 登録名は、炎 雪にした。

 本当は炎という名字は宮号を持たない人々が使うものだし、雪には宮号である風雪以外に名前も
ないが、生まれ変わる意味で、風雪姫宮の号は使わなかった。




「ひとまず私、血継限界はありますし、忍として生きていこうと思います。」

「そんなこと君の一族が認めるはずが…」

「明日一番で一族には除籍願いを出しますわ。」

「は?」




 斎は口を半開きにするが、雪の笑顔は清々しい。




「決めたんですの、私一族を継ぎませんわ。」

「否、無理でしょ。そんな非現実な・・君跡取りじゃないか。」

「ぜんぜん非現実じゃありませんわ。継ぐ気がないんですもの。私はただの雪です。」




 雪は涼しい顔で鍋にあった魚をとって自分の皿に入れる。

 鍋は良いにおいをさせており、食べ頃だ。

 だしで炊いているので、汁をとっても美味しい。


 鍋など大きな一族でお嬢様として育った雪には初めてのことだが、案外美味しいし、わいわい言
いながら鍋をつつくのは楽しい。

 こんなふうに、新しいことを知っていくことは、良いことではないだろうか。


 毎日新しい発見があって、辛くても、些細な楽しみを重ねる。

 そんな生活は、炎一族邸でじっとしているよりもずっと有意義ではないだろうか。

 後ろ盾のないただの雪として生きることは、そう考えると悪いことではなかった。




「まぁ雪が忍として正式に採用されたなら、炎一族も手出しは出来ないだろうけどね。」




 ミナトは苦笑しながら、鍋から野菜を取る。

 炎一族の中から雪を奪えば問題は出るが、雪が自分から木の葉の枠内、それも忍として採用され
たなら、法律なども炎一族の規則ではなく木の葉の物が用いられる。


 炎一族は手出しできない。

 多少木の葉との関係は悪くなるだろうが、そんなのは微々たるものだ。


 木の葉にも大義名分があるので雪を守りやすい。




「私は嬉しいわ。だって、雪と気軽に買い物とか行けるし。ね。」

「クシナに気軽に会えるのは嬉しいですわ。」




 今までは炎一族に許可を得なければ雪になかなか会えなかったし、出かけるなどもってのほかだ
ったが、ただの里の忍として住まうことになれば、話は変わってくる。

 クシナと雪の距離は確実に近くなるわけだ。






「今度、商店街に美味しい甘味屋さんができたらしいの?雪の初給料が出たら行かない?」

「良いですわね。楽しみですわ。」

「でしょ?」




 クシナと雪は気楽に笑い合う。

 だが、そんな簡単な話ではない。




「ねぇ、雪、それってどういうことか本当にわかってるの?」




 斎は静かに問う。




「それって、一族を捨てるってことだよ。君の一族は東宮が危険になるようなことに許可なんて出
さない。」




 炎一族は宗主の血筋を何よりも大切にしている。

 東宮である雪にも危険が及ぶ忍などと言う仕事を許可するはずもない。


 それを無理矢理押し通すと言うことは、自動的に一族との決別を意味する。

 炎一族の今の宗主は雪の父親・白縹宮だ。

 雪は母を嫌っている。

 それは知っているが、父親までも捨てるというのか。

 彼女は宗主で忙しくて構ってはくれない父を、それでも好いていたはずだ。




「知ってますわ。」




 雪ははっきりと理解した強い瞳で答えた。

 今度は先日喧嘩をした時のような意志の揺らぎや弱さはない。


 真摯な強い目が、彼女の決断の確かさを物語っている。




「全部捨てて、私はただ雪になるんです。」

「どうして、そんなことをする必要があるのさ。他に自由を得る方法だっていくらでもある。必要
性が、ないだろう!?」




 斎が声を荒げて叫ぶ。


 雪は炎一族に自体の体制に不満があるわけでも、自分の立場が嫌なわけでもない。

 彼女の立場は炎一族内で保証されているし、一定の自由も認められている。

 自由を広げようと中で彼女が戦えば、クシナと出かけることも、一人で暮らすことも、アルバイ
トだって認められるだろう。


 自分の身さえ危険にさらさなければ、彼女は大きく自由を広げることが出来る。

 わざわざ忍になって、一族を捨てる必要など無い。

 一族の中で喧嘩をすればいいのだ。


 忍になりさえしなければ、雪は普通に自由を拡大することが出来る。




「だって、貴方はそうしないと、私を雪としては見てくれないでしょう?」




 ぽつりと、雪は箸を持ったまま冷静に言う。

 忍になれば、雪は炎一族の東宮ではなく、ただの雪になる。


 それが、雪にとっては必要なのだ。




「私はね、貴方の心が欲しいんですの。それ以外は何もいらないって決めたんです。」




 幼い頃に運んでくれた温もりを、雪は今でも覚えている。

 それが遠ざかれば遠ざかるほど感じた孤独感。

 炎一族の中でひとり人から遠ざけられ、崇められながら、温もりが遠ざかっていく絶望に、雪は
耐えられなかった。




「炎一族の東宮のままで手に入らないなら、そんなものいらない。」




 斎は言った、雪に、炎一族の東宮である雪に与えられる物はないと。


 確かにそうだろう。 


 子供の作れない斎に、炎一族と東宮としての雪の責任をともに担うことは出来ない。

 東宮としての雪に、斎は一番必要な物を与えられない。


 でも、ただの雪なら違う。




「私は、貴方が欲しい。」




 何よりも、誰よりも、

 そう願うと決めたのだ。


 自分が自分でいるために、風雪ではなく、雪が良いと、自分で決めた。

 そのために必要な人を、手に入れたい。




「君は、馬鹿だよ。考えられない。」




 斎は持っていた皿と箸を置いて俯く。

 そんなつまらない理由で、雪は一族を、未来の安定を捨てるのか。


 信じられないというのが、正直な斎の感情だった。

 どうしてすべてを捨てて、こんな無意味な男を手に入れたいと願うのか。

 何も考えず頭空っぽで人殺しをし、何も考えずに予言の言葉を吐き、そして自分で死ぬ勇気さえ
もない。


 臆病者の典型だ。

 その上未来である子供すら作れないというのだから、




「僕にそんな価値はありはしない。未来に続かない僕にどんな意味があるって言うんだ。」




 ばからしい、小さな笑いを漏らす。




「ちょっと、一人にしてよ。」




 斎は俯いたまま、席を立つ。

 その背中は、酷く小さく見える。




「斎?」




 ぽかんとしていたミナトが慌てて後を追う。

 雪はただ、じっと斎の出て行った扉を見ていただけだった。












いつだって 誰だって 本当に欲しかったものはその瞳に映っていたものは一つしか存在しなかっ
たはずなのに ね
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