マダラがを外へと連れ出したのは、春も過ぎて夏になった頃だった。
「すごーい。大きな泉。」
見渡す限りの青色の水平線に感動して声を上げると、マダラが後ろで渋い顔をする。
「これが、海だぞ。」
「海。これが海」
見たことがなかったは初めて嗅ぐ潮の香りに驚きながらも、うずうずした。
初めて歩く砂浜は酷く歩きづらいが、不思議な感触だ。砂浜には通り過ぎていく赤い動物がいて、はしゃがみ込む。
「かに、だな。」
「かに?」
「食ったことないのか?」
マダラが首を傾げて尋ねるが、生憎は“かに”とやらを食べたことがなかった。
蒼一族が住まう結界のある泉と、海は非常に遠く、年に2回しか結界から出ない蒼一族が買い付けるのは生活必需品と手早いタンパク源となる肉だけで、わざわざ海産物を食べることはほとんどなかった。雑煮のだしが鶏肉でとられるのも、その一貫と言える。そのため、はかにを見たこともなければ聞いたことも無かった。
近くの泉にはかには住んでいない。いくつかの淡水魚と、たまに小さな貝がとれるくらいだ。
「可愛いね。小さい。どうやって食べるの?」
「そんな小さいのじゃなくて大きいのだ。」
「大きいの?」
想像も出来ない。目の前にいる赤いかにを大きくしても何となく真ん中が食べやすそうだと言うことしか分からなかった。
うちは一族は、この間また居を移した。
今度は海に近い場所だったらしく、マダラが桜の季節は忙しく、結局桜を見せることが出来なかったからと、を海に連れてきてくれた。マダラの部屋で一日中過ごす生活が続いていたから、久しぶりの外では嬉しくてはしゃぐ。
本当はうちは一族の面々に反対されたらしいが、それでもマダラが一緒に行くため逃げられる可能性が無いと言うことで、許してもらえた。
「すごいね、水が揺れる。」
波打ち際では、水が行ったり来たりを繰り返している。
たまったままの結界の中にある泉とはまったく違う。大きな魚はあまり泳いでいないが、小魚がたくさんいた。面白くて下駄を脱いで着物の裾をたくし上げて海に入ると泉の水ほど冷たくはなかった。寧ろ生ぬるい。
「空がすごく広い。」
木に遮られることのない空はどこまでも続いている。海と空の境界線は一本の線になっていて、見渡す限り続いている。
「あれが水平線だ。」
マダラが遠くを指さして言う。
あと2時間ほどすれば太陽が沈むのだそうで、マダラはそれをに見せたくてここに連れて来たのだという。夕日とは森の中に澄んでいた達にとって、ただ空が赤く染まりゆっくりと暗くなるだけだが、ここでは丸くて赤い太陽が沈む様が見えるそうだ。
まだは見たことがないから分からない。
「ここは遠浅だがあまり遠くに行くなよ。落ちた時、海は深い。」
「どのくらい深いの?」
「場所によってはおまえを30人分くらい積み重ねたくらいだ。」
マダラのたとえは複雑だったが、要するに一度落ちたら戻ってこれないくらい深いのが分かって、は下は見ないことにした。水面にチャクラで吸着し、地平線の向こうへと歩き出す。
「どこまで、続いているのかな。」
「きっとチャクラがつきるまで続いている。」
このまま歩いて行ったところで、おそらくどこにもつくことが出来ない。あるのはただの大海原だけで、チャクラがつくまでに対岸の陸地に着くことは出来ないだろう。そもそも陸地があるのかすらも分かっていない。
「すごいね。広いんだ。」
は幼い頃から小さな泉しか見たことがなかったから、海が見られる日が来るなど夢にも思わなかった。物語の中では読むことはあっても、実際に蒼一族の人間が見たことはほとんどない。夢物語の世界に自分が今いると思うと、不思議だった。
「みんなこんな綺麗な世界を見たいから戦ってるのかな。」
蒼一族は戦わない、けれどその代わりひたすら小さな結界の中で過ごす。
それは退屈で安穏としたものだが、平和が常に約束され、争いの中に死ぬこともない。しかしうちは一族のように戦い続ければ、戦いの中で死ぬこともある。だが、彼らはこの世界にある綺麗なものをたくさん見ることが出来るのだ。
「おまえは、どっちが良いんだ。」
マダラが海風に揺れる自分の髪を押さえて、問う。
「どっち?」
「一生小さなところで暮らすか、綺麗なものを沢山見るか。」
それは一族の生き方の違いでもある。
生まれは選ぶことが出来ない。当然蒼一族にいれば、選ぶことは出来ない。外の世界に出てはいけないと言われているし、こんな風にうちは一族に攫われることさえなければ、がこの海や、外の世界を見ることもなかっただろう。うちは一族に産まれても、きっと蒼一族のようにこじんまりとした生活は望めなかったはずだ。
選択の機会があるなら、と問うマダラに、は小さく首を傾げた。
「わたしはあまり戦いは好きじゃないよ。」
「好きな奴はいない。」
マダラだって好きこのんで戦っているわけではない。ただ敵がいる限り、自分の生存権の確保のために戦わなければならない。それだけだ。
誰も好きなわけではない。
「どっちが良い?」
マダラが海の上に立つに手をさしのべる。
さらりと海風が長い紺色の髪を遠く、見たこともない対岸へと導いていく。それはきっと蒼一族の誰も到達したことのない、その遠目の力を持つ水色の瞳でも見ることが出来ない遠く。
「桜が、見てみたいな。」
は無邪気にマダラにそう返した。
マダラはうちはのある集落の一つに、桜が一杯咲く場所があるという。それはがいつも見ている葉と花が一緒に開く山桜では無く、花だけが先に咲くのだという。薄桃色の花弁が綺麗だと話して聞かせたのはマダラだ。
今は夏で、桜の時期はとうに終わっている。次に桜が咲くのは来年−8ヶ月も後のことだ。常に戦いの中に身を置く彼は、攫われてきた人質である自分は、八ヶ月後のことを約束できるような身の上ではないだろう。
それでも、はただ、彼と彼の話した桜が見たいと思った。
「それは、どっちなんだ。」
呆れたように、マダラは少し不機嫌そうな顔をしたがどうやら照れ隠しのようだ。
「だから桜が見たいんだよ。」
はそう笑ってマダラの手を取った。大きくて傷だらけの手は綺麗なの手とは全く違うけれど力強い。
淡麗に整った横顔を眺めながら、は小さく笑った。彼が自分に思いを寄せてくれていることを、何となくは理解していた。それはおそらく思い違いではないと自分の勘が言っていた。だから、は今の生活が悪いと感じていなかった。
彼は不器用だが、優しい人だ。
それにを蒼一族の人間としてではなく、ひとりのただの少女として認識してくれていると言うことをは知っていた。
「わかった。来年は必ず、桜を見せよう。」
マダラはの手を握って、漆黒の瞳を向けて言う。
「うん。楽しみにしてる。」
きっと彼と見る桃色の桜の花弁は綺麗なものだろう。
見たこともないものに心を弾ませ、ただ夢を膨らますは、世界の何も理解していなかった。二人で世界が完結しているものだとすら、思っていた。
絡めた小指に