心も体も全部が痛くてはどうすることも出来ず、ただ俯くしかなかった。縛り付けられ、吊されるような状態だった、手首がすごく痛い。マダラが入ってきた中はまだじくじくと酷い痛みを放って彼を思い出させる。だが心の方が崩壊寸前だった。
マダラが自分に好意を感じていると思ったあの勘は、間違いだったのだろう。
が勘を外したことは初めてで、しかもなんて間違いをしたのだろうと後悔しか感じない。彼は自分のことが嫌いだったのかも知れない。当然だ、蒼一族の娘であり、幻術にもかからない、協力もしないを嫌っていてもおかしくはない。
そんな当たり前のことを、どうしてはわからなかったのか、
今まで9割当たると思ってきた自分の“なんとなく”が酷く心許なくなり、自分すらも信じられなくなる。あんな酷いことをされて、それでも相手が好意を持っているなんて、思えるはずもない。これからどうしたら良いのか、死んだ方が良いのかと何か探すが、マダラの部屋にある武器はがこの部屋に軟禁されることが分かって撤去されたと言う。
「お目覚めですか。」
女性のカナがやってきて、声をかけた。
彼女はの監視役だったが、一度に出し抜かれてから、監視役をすることはなくなっていたが、それでも身の回りの世話にはやってきていた。とはいえ今マダラはいない上に、男の監視役はいない。大抵マダラがいない時にやってくるのは、手練れである。
首を傾げると、カナは頭を下げ、口を開いた。
「このたびは、おめでとうございます。」
「え?」
何を言っているのか分からず、はますます首を傾げる。あの暴力しか思い浮かばず、最近めでたいことも記憶にない。だが、カナの口から出た言葉に、は呆然とした。
「頭領の妻となられたことです。おめでとうございます。」
頭領とは、うちはマダラのことだ。
「だれ、が?だれの?」
は呆然と尋ね返してしまったが、答えは心のどこかで知っていた。
「もちろん様が、マダラ様の、ですが、」
カナは不思議そうに小首を傾げる。
「昨夜体の方はマダラ様がお清めになったようですが、どうなさいますか?」
「…、」
昨晩、行為がいつ終わったのかすら、は覚えていない。その後風呂に入った記憶は全くと言って良いほど無い。ただ痛くてたまらなくて、泣きじゃくったことしか。痛いと訴えても、彼は暴力をやめようとはしなかった。は俯き、自分の枕を抱きしめて膝を抱える。
怖くて、痛くて、たまらなかった。
ここに来て本当に初めて恐ろしいと思ったし、肉体的にも酷い痛みを感じた。悲しかった。彼に浅はかな期待をした自分が、そして彼に嫌われていたことが、本当に心から悲しかったのだ。
本当は外に出たことが、弟妹の世話から解放されたことが少し嬉しくて、マダラやイズナが優しくしてくれるのが幸せで、忘れていたのだ。自分は部外者であり、敵で、彼にとって憎むべき存在の一人かも知れないことを。
「泣いていらっしゃるの、ですか?」
カナが戸惑いがちに尋ねる。
「…帰りたい、」
がここに来て、その言葉を口にしたのは初めてだった。
何となく感じることはあっても、言葉にしてしまえば自分まで崩れてしまいそうで、懸命に押し殺していた。マダラやイズナが良くしてくれるのだからと、絶対に口にしなかった。それが今になって唇から勝手に溢れてくる。
「こんなことなら、」
何も知らぬまま、彼を知らぬままにあの場所で一生を終えた方が幸せだった。こんな風に痛みを受ける必要も、いらぬ期待故の悲しみもなかっただろう。
あの緩慢で愛おしい場所は、確かに退屈だがを守ってくれる。
「様、」
カナが酷く狼狽えた顔をして、そっとの頭を撫でる。その手が自分の父親に重なって涙がまた溢れた。
父が生きていた頃、の世界にはなんの憂いもなかった。父が死に、幼い弟が当主となってから、が頼れる人は誰もいなくなった。もちろん蒼一族の大人はを助けてくれたが、それでも日頃妹と弟の面倒を見て、長老と渡り合っていくのはにかけられた使命だった。
父が死んでから、誰にも頼ることは出来ず、ぴんと張った糸の上を歩くような生活をしてきた。
だから、それから開放され、彼らに捕まった瞬間はどこかで安堵すらも感じたのだ。やっと蒼一族から解放されて、外に出て、死ぬことが出来ると。それを忘れかけていたのはきっと、マダラとイズナがあまりにも優しかったからだ。
うちは一族に来てから、何があってもマダラとイズナがどうにかしてくれた。彼らはにとって頼るべき存在だったのだ。
「やっぱり、あの時、わたしは死ぬべきだったんだ。」
マダラが自分を娶ったと言うことは、それは蒼一族の娘としてと言うことだ。ならば、は蒼一族として死ななければならない。自分が蒼一族の当主の姉だと言うこともばれているのかも知れない。なおさら早く、彼らの邪魔になる前に。
「そういう訳にはいかない。」
マダラの低い声が部屋に響き、はっとは顔を上げる。いつの間にか柱にもたれているマダラが部屋にいて、静かにを見下ろしていた。
「おまえはもう俺の妻だ。帰すわけにはいかないし、死んでもらっても困る。」
マダラは正式に蒼一族にその旨を申し入れた。
了解など必要はない。の身柄を持っているのはこちらであり、頭領であるマダラの妻であればあちらもすぐに返せとは言えないし、迂闊に手も出せない。もちろん回答はまだないが、答えなど限られているとマダラは知っていた。
今この状況で死ねば、大問題である。
「下がれ、」
マダラは低い声でカナに命じる。カナは少し躊躇うようにを見たが、頭領に命じられれば仕方がない。彼女は部屋を辞した。
「おまえは、うちは一族だ。」
娶った限りは夫の一族に殉じるのが世の常。もう彼女は蒼一族ではなくうちは一族の一員だ。そう言いきったマダラに向き直るように振り向いて、はふらふらとした足取りで立ち上がる。昨日の名残がまだ残っているから体中が痛いが、立ち上がり、彼を見上げる。
「…わたしも困る。」
まっすぐはマダラの漆黒の瞳を見て、言う。
「わたしは蒼一族の娘。どこに娶られようが、この髪と瞳がそう言ってる。」
争いを旨として真っ黒な髪と、真っ黒な瞳を持つうちは一族とは違う。の容姿と心、そして蒼一族に教えられてきた考え方は、所詮うちは一族の男に娶られたとしても全く変わらない。この珍しい紺色の髪と瞳が何よりの証だ。
「どこにいても、変わらない。」
は目を伏せる。
世界のどこに逃げたって、自分が蒼一族の娘であることに変わりはない。希少な能力を持ち、珍し紺色の髪を持ち、そして、こうやって狙われ、利用される。
「外は辛いんだね、でもどうせ最期なら見れて、良かったのかな。」
は彼に背を向けて、小さく笑う。
それが死への旅路だったのだとしても、マダラに攫われたことによっては僅かでも外を見ることが出来た。蒼一族、しかも当主の姉であれば、は一生あの中で生き、結婚し、死んだだろう。普通の蒼一族の者と同じように。
死が外に出た代償だというなら、それを蒼一族の娘である限り支払うべきだ。その覚悟はとっくにある。
「何故、死ぬ必要がある。」
マダラが低い声で問う。突然後ろからのしかかるように抱きしめられ、は目を丸くして彼を振り返ろうとしたが、彼に抱きしめられているため出来ない。
「わたしがどこに行っても、蒼一族だと、それを、示したのはあなたでしょう?」
は震える声でそう返した。
ただのとして、はマダラに感謝していた。イズナにも優しくしてもらって、ただのとしては多分なほどに与えてもらったと感謝している。どこかでは逃げていたかったのかも知れない。そして、無謀な期待をしていた。
ただのとして彼が自分のことを見てくれるんじゃないか、と。
しかし、世界が戦いだらけで、平和なんてどこにもないと言ったのは、マダラだ。そして自分の一族が捨てられないことを、ただのにはなれないと示したのは彼自身だ。蒼一族の娘として無理矢理娶られるなら、自分は蒼一族の娘として守らなければならない誇りがある。
「わたしは、」
抱きしめる彼の腕にそっと触れて、聞こえないほどの小さな声で、呟く。だが、もうすべてが遠かった。
干乾びた波音