炎一族邸でのの生活は驚くほどに不自由は何もなく、贅沢そのものだった。
「…参りました…」
は盤上の駒を眺めて、もう一度考え直したがどうしようもなく、目の前の青年を改めて見て一つ頷いた。
「お粗末様でした。」
膝を立てて本を退屈そうに見ていた彼は、本からその灰青色の瞳を話すこともなくあっさりと言う。の負けを確信していたのだろう。
は何回やってもこの目の前の彼―風雪宮に敵わなかった。
風雪は一応、炎一族宗主の弟で、を攫った張本人だ。彼は種なしと呼ばれる宗主にはなれない存在らしいが力に関しては匹敵するものがあり、一族の中では宗主とまだ幼い跡取りの東宮の次の地位を占めているらしい。
彼は驚くほどに賢い。盤上の駒をほとんど見ることもなく、淀みなく駒を進めるのだ。しかも本を読みながら。彼は本が好きらしくいつも本を読んでいるが、それから目を離すことなくや東宮と会話をして、どちらもちゃんと記憶している。
「、だっこ。」
彼の隣で盤上の戦を見ていた銀色の髪の子供が遠慮なく唇を尖らせて見せた。小さな子供にとって大人たちがやっている盤上のゲームは面白くなかったのだろう。
このまだ4歳の少年が、東宮・白縹宮らしい。
うちは一族の先日殺された妾の息子であり、次の炎一族の後継者だという彼もまた銀髪に灰青色の瞳の持ち主で、母が恋しいのか、それともただ単に風雪宮に遊んで貰いたいのか、時々ここに来るようになっていた。
炎一族邸に軟禁されて数週間。生活は驚くほど豊かで、退屈しのぎも沢山用意されていて、不満は全くない。寂しいのは娘が自分の傍にいないことだけだ。
が東宮を膝に抱き上げると、それだけで彼は満足なのか、放っておけば何時間でもただくっついてくる。そうして膝の上でそのままうとうとし出すのが、この子の癖だった。
「重くないのか?」
風雪は少し困ったように甥を見る。
「大丈夫。」
は風雪に一言返して、幼子の柔らかい髪を撫でた。
「兄も忙しくてな。妾のことも、兄がいない間に癇癪を起こした兄の中宮が、追い出してしまったのだよ。」
「中宮?」
「正妻のことだ。宗主には妃がたくさんいてな、妾の彼女は妃にもなれない、身分のものだった。」
風雪は目を伏せて、大きなため息をつく。
うちは一族の奪った首飾りを取り返すために炎一族はを攫い、に人質としての価値がないと分かると、すぐに作戦を切り替え、通商経路を妨げるぞと、出来たばかりの忍たちの巨大な休戦協定にの実家である蒼一族を通して脅しをかけている。
だが、うちは一族が謝って通った炎一族の領域内の谷は、まぶしい人々が住む場所だ。何故そこに、大切な首飾りを持った人間が偶然居合わせ、殺されたのか。
「彼女はたまたま視察の際に兄が訪れた村の娘だった。兄はもっとも愛し、東宮を産んだ女性に、あの首飾りを渡した。」
ただの村娘が炎一族の宗主に見初められたのだ。彼女は寵愛を受け、結果的にの腕の中に今いる東宮・白縹を儲けた。首飾りを与えられた彼女は実家が谷近くにある貧しく身分の低い妾であり、それにもかかわらず、宗主の最も愛した女性だった。
「兄は中宮を廃したよ。もしも中宮が妾を追い出さなければ、うちは一族と鉢合わせることもなかっただろう。」
中宮が宗主のいない間に妾を追い出さなければ、妾の彼女がうちは一族と鉢合わせることも、殺されることも、首飾りを奪われることも亡かっただろう。中宮の罪はその実家の権威に関係なく正妻の位を剥奪されるほどに大きかった。
「…跡取りの、生母だったのに。」
は殺された妾の事を思えば、心が痛かった。
母としての子の傍にいられない悲しみは心からよく分かる。自分が子供の立場を危うくするのかも知れないと思ったのは、も同じだ。男児を産んでおらず、跡取りの生母でもないですらも娘の行く末を思って不安になる。亡くなった妾はどれほど我が身を呪ったことだろう。
「どちらにしても政略結婚は哀れだ。無用な憎しみを生み、時にそれが幸せを奪っていく。中宮もまた、その犠牲者と言えよう。」
風雪は淡々とした口調ながらも悲しそうに甥の頭を撫でながら言った。
今回正妻の座を追われた中宮も、権力のある家の出身だからこそ炎一族宗主の妃に迎えられたのだろう。とはいえ、それは政略的な問題で本人の愛情の問題ではない。無理矢理嫁がされたものは、せめてもの心の支えとして地位を守ろうとする。
その結果他者を傷つける。
「わたしは、好きだったし、正妻だったはずなんだけど、なぁ。」
は目を伏せて、ぽつりと口にしてから、泣きそうになって唇を噛んだ。
政略結婚だと言ってもそれは後からの問題で、は彼のことが好きだったし、彼も自分の事を好きだと言ってくれた。大変な事は多かったし、うちは一族の目は冷たかったけれど、彼に愛されているのだからとそれだけを支えに頑張ってきた。
名ばかりの正妻であっても、マダラには少なくとも望まれているのだからと信じてやってきた。努力していたらいつかうちは一族の人も分かってくれるとなんだってしたつもりだ。
―――――――――――ここは、うちは一族が入るための避難所です!
がうちは一族ではないからと、侍女頭のカズナはそう言った。が頭領の正妻だったとしても、蒼一族出身のが避難所に入る資格はないと、彼女は見なしたのだ。は子供を腕の中に抱きながら、頭が真っ白になった。
自分の娘はどうなるの、と。
「なんか、疲れちゃった。」
娘のために、マダラのためにと懸命に頑張ってきた、慣れないことも努力してきたつもりだ。
けれど、カズナに言われた瞬間、は娘のために、マダラのために、自分はいない方が良いのでは無いかと思った。少なくともさえいなければ娘は避難所に入れてもらえる。マダラだってカズナを罷免せず、問題を大きくせずに済んだのではないか。
「帰る場所も、もうないしね。」
蒼一族からうちは一族に攫われた時点で、死は覚悟していた。攫われた人間が戻ることを蒼一族は許していないから、仕方がないことなのかも知れない。ましてや一度嫁いだ娘が戻ってくるなんて、外聞も良くない。
にはうちは一族を出たとしても既に戻る場所すらないのだ。
風雪は静かにの話を聞いていたが、少し目をそらして、ぽんとの頭の上にその大きな手を置いた。その不器用な慰めに、は小さく笑ってしまう。
「別にここにいたいなら、いても良い。」
「でも、あんまり長居すると、みんなが困るよ。」
「兄も役に立たないおまえを攫ったことには申し訳なく思っている、だから、別におまえを置くことに対して文句は言わない。」
風雪はゆったりとした口調で言った。
彼は基本的に口数はそれほど多くはないが嘘をつかない人間で、心からそう言っているのだろう。それは宗主も同じで、特に東宮がに懐くようになってからは、しきりにこのまま帰らなくても良いのでは無いかと言ってくれていた。
政略結婚をして、婚家で良い扱いを受けていないに対する哀れみもあるのだろう。
「どうせうちは一族もおまえを強制的に攫って娶ったのなら、こちらの行動にも文句を言えないはずだ。」
風雪の言うことは、確かに一理あった。
このまま炎一族がを手元に置き続けても、他の一族はの希少な能力を炎一族が手に入れたいがためだけにうちは一族の嫁を攫ったと思うだけだ。それを阻止出来なかったうちは一族にも問題があり、また、うちは一族がを娶った経緯も経緯であるため、同じ方法を取ったとしても、蒼一族は受け入れざるを得ない。
は炎一族の人間と結婚する。その通告さえ蒼一族に送ってしまえば、身柄はこちらにあるのだから、炎一族に問題はない。要するにうちは一族がを娶るときに使った手法と全く変わらない。
「…」
は現実的な話に、答えを返すことができなかった。
一つだけ確かなのは、が居ない方が娘がうちは一族に認めてもらえるかも知れないという浅はかな考えが頭を過ぎって消えない、それだけだった。
存在意義の消失