水鏡越しではあるが、直接炎一族の宗主が協議の場に出てきたのは、が攫われて1ヶ月以上もたった7月のことだった。
協議の中心となるのは基本的に蒼一族の当主である萩だが、彼はまだ12歳の子供で、何かと舐められる。そのため千手一族の柱間と、今回の件を引き起こしたうちは一族の代表としてマダラも同席することになった。
「こうして直接じゃないとは言え、会えたことは嬉しい。は元気…」
『余の要求は首飾りを返すことだけだ。返さぬと言うなら、交通の要衝は閉じさせて貰おう。』
柱間の言葉を完全に遮って、白銀の髪に灰青色の瞳をして30前くらいの宗主だという男は淡々と自分の主張だけを述べた。その要求は基本的に書状で示したとおり全く変わっていない。
のことに関しても、全く話に出てこない。というか、まったくその話をする気はないようだった。
「首飾りは、返す準備が出来ている。首謀者のイカダに関しても、そちらが望みとあれば生きたまま引き渡そう。」
マダラはを攫ったであろう男に言う。
本当なら今にすぐにでもイカダの首を切ってしまいたいところだが、首飾りのありかを吐かせた後も、彼を殺してはいない。首飾りを奪った原因はいとも簡単で、高価な鉱石だと知っていたからだった。売れば恐ろしい値がつくらしい。
たったそれだけの理由で、殺した女から遺品を奪い、厄介ごとをうちは一族に持ち込んだのだ。
『そうか、こちらの者に改めて受け渡しに関しては連絡する。』
イカダのことを聞いた途端、宗主の声のトーンが低くなったのが分かった。その声には憎しみや悲しみなど、負の感情が溢れている。
既に宗主から、殺されたのが宗主の妻であり、東宮の生母であったことは聞かされている。
そんな高位の人間がなぜあんな貧しい人々の住まう谷にいたのかはわからないが、どちらにしても宗主にとっては高価で特別な首飾りを託すほどに大切な存在だったのだろう。
マダラもが殺されたと言われたら、正気でいられなかったかも知れない。むしろ今ですらもイカダをこの手で殺してしまいたくてうずうずしているのだ。例えようのない怒りがそこにあって当然だ。
「…姉の事が、知りたいんだけど。」
萩は水鏡を見上げて、幼い声音で言った。彼も姉の状況を一番危惧している。
『政略結婚で出した哀れに痩せた娘が、そんなに気になるのか?』
宗主は嘲るように言って、肩を竦めた。粗雑に扱っていたのに?という含みが聞こえるようで、マダラは奥歯を噛む。
『あれには、申し訳ないことをしたと思うておる。人質の価値もないというのに、不自由なことをさせてしまった。』
口調は心からを憐れむようだったが、同時にを粗末に扱っているであろううちは一族に対する非難も含まれている。それはが自ら炎一族の宗主に自分がうちは一族にとって人質の価値がないと表明したであろう事を示していた。
自分が殺される可能性があるのにそんなことを言ったのは、心の底からが人質としての価値がないことを信じていたからだ。
『安心しろ、炎は義を重んじる。こちらの落ち度で悲しい思いをさせてしまった女に意に沿わぬ事はさせぬ。余が言うことはそれだけだ。』
宗主は手をひらひらとさせて見せた。すました顔の宗主に殺意すら覚えたが、マダラとてこの状況で歯どうしようもない。
だが、ふと柱間が口を開いた。
「と話が出来ないか?ちょうど娘も一緒に来ているんだ。彼女も娘が心配だろう?」
マダラは今日、娘のアカルを連れてきていた。の姿を水鏡で見られると思ったのではなく、扉間たちが別室にいるので、それについてきたの妹・愁に娘を見せるためだ。も、妹に娘を見せるのを楽しみにしていたし、が居なくなってから酷く不安定な娘を少しでも慰めることが出来ればと思ったのだ。
柱間の言葉に宗主は初めて目を丸くして、驚いたような顔をした。それでも彼は会わせるとは言わなかったが、後ろにいる侍女に何かを言ったところ、を連れてきてくれるようだった。
柱間も近くにいた護衛に言って、マダラの娘を呼びに行かせる。今はマダラの弟のイズナとともに、の妹の愁が娘を見ているはずだ。
「兄さん、」
イズナが少し早足でやってきて、娘をマダラに渡す。親指を加えていたアカルは、嬉しそうに笑ってマダラに手を伸ばしてきた。
水鏡を見上げると、宗主の左奥からが不思議そうな顔で出てきた。
久々に見るは緋色の袴に羽織姿と炎一族の伝統的な格好をしていて、服装のせいかとも思ったが、彼女は随分と顔色も良く、うちは一族にいるときより少し太ったようだった。後ろにはもう一人銀髪の男がいて、の足下には銀髪の小さな子供ががしっと思い切りの袴にしがみつき、どう見ても歩きにくそうだった。
『何か?』
は不思議そうに首を傾げて宗主の方へと歩み寄る。
『汝の娘がおると、』
宗主が言うと、は酷く驚いた顔をしたが、すぐに駆け寄ろうとして、我に返って足下にいる幼子を抱き上げた。そしてこわごわと、水鏡の方へと近づいてきた。
マダラの腕の中にいたアカルは、久方ぶりに見る母の姿を見てか、マダラの腕から出て、母親に抱いて欲しいと手を伸ばす。だが、所詮は水鏡だ。目の前にいるのではない。いつまでたってもいつものように母が手を伸ばしてくれないことが分かったアカルは、途端に機嫌を悪くし表情を歪めた。
『…アカル、』
悲しそうには手を伸ばしかけて、引っ込めて胸元で握りしめる。の声にアカルは一瞬泣くのをやめたが、すぐにやるせなさがこみ上げてきたのだろう、また泣きだし、何度マダラが揺さぶって慰めようとしても駄目だった。
『ごめんね、…わたしの、子供で、』
はぽつりと泣きじゃくるアカルに告げる。泣き声にかき消されそうな程の小さな声だったが、マダラの耳にも届く。
「?」
マダラが彼女の名を呼ぶと、はマダラの存在を思い出したかのようにはっとして、ばつが悪そうな顔をした。
「兄さん、」
流石に酷い泣き方をするので、イズナがアカルを連れて行く。アカルはかなり抵抗したが、それでもイズナが無理矢理抱き取ると、しがみついて部屋を出て行った。
たった数分のやりとりで、空気は限界まで沈み込んだ。
『マダラさん、わたし…、』
は何かを言おうとして、けれど人が居る場であるためなんと口にして良いか分からないらしく、結局言葉が見つからないのか、口ごもる。
代わりにマダラが口を開いた。
「そっちでゆっくり出来るなら、ゆっくりしてこれば良い。」
『え?』
「その間に、老害をたたき出す。」
をここまで追いつめたのは、マダラが外交にばたばたしてうちは一族内でのの立場を固める努力をしなかったからだ。もっと早く侍女をすべて入れ替え、休戦協定を尊重する人材を登用するようにすれば、こんな事になっていなかった。
それをばたばたして後回しにしていたのは、マダラだ。
『でも、わたしがいない方が、良いでしょう?きっと、アカルにとっても、』
は先ほど口ごもってしまった言葉を、唇にのせる。
カズナにうちは一族ではないことを理由に避難所に入ることを拒否されたはアカルにとっては、蒼一族の母親は居ない方が良いと、は思ったのかも知れない。
「母親がいないことが良いことなんて、あり得ない。おまえはあの泣き声を聞いてもそう思うのか?」
仮にそうだったとしても、母親のが居ないことが、アカルにとって幸せだとは到底思えない。ましてや先ほどの母を求めるアカルの泣き声を聞けば、娘が母親を求めているのは明白だ。まだ8ヶ月の娘でも、母親を判別することは出来る。
「一族のことでは辛い思いをさせて悪かった。」
マダラは自分でもあまり謝らない方だとは思っていたので、謝罪があっさり口から出てきたことに自分でも驚いた。だが、もしもが帰って来ないなら、これ最後の可能性もあると思えば、本当に自分でも呆れるほど簡単に口にできる。
「俺にとっても、おまえがいなくてよい事なんて、一つもない。」
どちらにしても、マダラはが欲しくてたまらないのだ。
うちは一族に決断を迫られたときに、最良だったのはもしかするとを殺すことだったのかも知れない。だが、マダラは自分の心を優先して、の意に沿わぬ形であったとしても何に変えても欲しいと思った。だから無理矢理でも良いから、妻にした。
だからこそ、を失うくらいなら、うちは一族を変えてしまった方が早いと心からそう思っていた。
すべてを捨てても貴女に焦がれる