既に廃墟となっているうちはの元集落を抜け、一つ森を越えると、幅の広い川があった。



「わぁ、澄んだ川ね。」



 水も澄んでおり、幅広く、河原には丸石が並んでいる。は楽しそうに笑って、履いている下駄ごとぱしゃぱしゃと浅瀬に入って行く。ひらりと、彼女の着物の袖が弧を描く。



「冷たいし、流れてる。すごいね!」



 何が、とマダラは問いたくなったが、そのかわりに肩をすくめて苦笑した。

 蒼一族の住んでいた結界の中には、泉しかなかったという。川はあったとしてもあの深い森の中なら、小さいものでしかなかっただろう。よく考えればマダラ自身も、彼女を大きな川には連れて行ったことがなかったかも知れない。

 彼女にとっては、初めての経験で楽しくて仕方ないのだろう。彼女の驚きを見ていると、マダラ自身、周りの美しいものに目を向けていなかったような気がして、新鮮な気持ちになる。

 彼女の目に、世界はきっときらきら光って見えるのだろう。



「大きなお魚がいるね。」



 は浅瀬から見えた魚を追い、楽しそうに足を踏み出す。だが次の瞬間、苔のはった石に足を滑らせ、深みに落ちた。大きな水音と水しぶきが上がる。



「・・・泳げるわけ、ないな。」



 泉は恐らくそれほど深くなかっただろうし、の様子からして、機敏に泳げそうではない。マダラはそう結論づけて、を早々に引き上げることにした。

 水面を歩けば、の所まで行くのはそれほど難しくはない。



「おいおい、大丈夫か。」



 水面から手を伸ばしても届かないようなので仕方なく一度見ずに潜り、を水中から引き上げる。抵抗する術もなく流されかけていたは、あまり暴れることもなくマダラの腕に収まり、引き上げられることとなった。

 マダラは川辺にを引き上げると、水を吐くようにすぐ彼女の背中を叩く。は一つ二つと咳をしたが、その後は水に落ちたことに驚いたのか、引き上げられても反応が鈍く、紺色の瞳をまん丸にしてマダラを見上げていた。



「大丈夫か?」

「う、うん。水って結構冷たいんだね。」

「おまえな。」



 感触を確かめた子供のような彼女の言葉に思わず呆れる。だが、本当はそれぞ年相応だろう。子供を産んでいたとしても、なんと言っても彼女はまだ、10代半ば、しかもほとんど世界を知らず、結界の中という小さな場所で育ったのだから。



「それも深いんだね。わたしの背よりもずっと深かったよ。流れも早いし、すごい、もう一回してみてもいい?」

「・・・おまえ、泳いだこと、あるか?」

「ないよ。だって深い水のあるところつれて行ってもらったの、マダラさんと行った、海だけだもの。」

「入るのは控えてくれ。」



 泳げる、泳げないの問題ではなく、そもそも泳いだことすらないらしい。根本的な問題なので、楽しそうな本人には可哀想だが、控えてもらったほうが良いだろう。



「残念。でもきらきらしていて、水面がすごく綺麗だったよ。」



 は紺色の瞳を細め、嬉しそうに言う。

 先ほど沈んだ時に、水の中から水面を見上げたのだろう。よく晴れているから青い空とその光が反射して、水面はきらきらと光る。幼い頃、マダラも何度かそれを見たくて、水の中にわざと入ることがあった。もちろんそれは10歳以下の頃の話だし、マダラは当然その頃には泳げた。



「ひとまず、服を着替えるぞ。」



 着替えは一応持ってきている。マダラが濡れた上半身の服をその場で脱ぐと、は視線をそらした。


「おまえ、今更だろう。」



 何度も体は重ねているし、一緒に生活もしている。見る機会などいくらでもあっただろうが、確かによくよく思い出してみると、情事の時に彼女がこちらをまじまじと見るような余裕を与えたことはないし、着替えている時も彼女は何か者をしていることが多く、こちらを向いていたことはなかったかも知れない。



「だ、だって、じっくりなんて見たことないもの。」



 僅かに頬を染めて、頑なにそっぽを向いている姿に、マダラの方が吹き出した。



「おまえ本当に、初心だな。好きな奴のひとりやふたりぐらいいなかったのか?」

「忙しすぎて、そんなこと考える暇もなかったです。」



 の父が亡くなったのは10歳になる頃で、それからずっと弟妹の世話や蒼一族の采配をしてきたため、年頃になっても、色恋沙汰など考えている暇もなかった。


「まあ、そんなものか。」


 マダラもあまり変わるものではない。頭領として妻を取ることを求められてきたし、女を抱いたこともあるが、誰かが好きとか、そんなことを考えるような時間はなかった。

 が現れるまでは。

 はやはりマダラ以外いないとわかっていても恥ずかしいのか、寒さよけに持ってきた足下まですっぽり入る上着の下で着替える。ただ、着物は着付けが難しく、それでは無理だろう。

 思い出してみれば、部屋では着替える時、几帳の裏側で着替えていた。忙しくてマダラも気づかなかったが、存外は恥ずかしがりだったらしい。そういえば当初、アカルの授乳もマダラの前でするのを嫌がっていた。

 マダラがやましい気持ちなく娘を見たがるから、妥協しただけなのかも知れない。



「だって・・・こんな外で。」

「どうせあたりには俺しかいない。諦めろ。」



 透先眼で近くに人間がいるのを見通せないなんて事はあり得ないはずだ。着替え終わったマダラが言うと、は目尻を下げて酷く情けない顔をしていた。



「もう襦袢は着たんだろう?」

「後ろ向いてて、」

「往生際が悪い。俺は着替え終わったからな。のんびり眺めさせてもらおう。」



 マダラは近くの岩に腰を下ろし、胡座をかいた膝の上に肘をついて彼女の着替える様子を眺める。唇の端をつり上げれば、逃れられないと思ったのだろう。は少しむっとした顔で頬を膨らませ、マダラを睨む。それがますます子供っぽい。



「早く着替えろ。」

「ひどい。」



 はそう言いながらも仕方なくといった様子で、唇を引き結びながら、着替えを始めた。

 ただし、既に襦袢を着ていたため、マダラとしては追い詰められたの表情こそ面白かったが、見目として期待できる形ではなかった。



「どこまで行くの?」



 は着替えを終えるとほっとした顔をしてから、マダラに尋ねる。



「あぁ、もう少し下流の方だ。ここからは川沿いを歩く。足は大丈夫か?」

「軽い捻挫だったから大丈夫だと思う。」

「転ぶなよ。おまえはそこそこ鈍くさそうだ。来い。」



 マダラはそう言って、に手をさしのべる。は嬉しそうに紺色の瞳を細め、その手に自分の白い手を重ねる。



「マダラさんはそこで、何がしたいの?」


 の鈴のように高く、柔らかい声音がマダラの過去を浮かび上がらせる。



「・・・水切り、かな。」

「みずきり?」




 川縁で育ったことのないには、その意味すらもわからなかったらしい。首を傾げて、だが楽しそうには笑う。


「やり方を、教えてくれるの?」



 彼女はそう言うけれど、恐らくそのやり方を知っているのは、そしてその能力があるのは彼女だけだ。


「あぁ、おまえと一緒なら、出来るかも知れない。」



 マダラはの小さな手を握って、幼い頃の夢を思い出して、久々に心から笑えた気がした。



貴方と辿り、還る