肩に感じるのは、後ろから額を預けているマダラの重みだ。
「外の、世界?」
はマダラの言葉をかみしめ、自分で理解するために反芻する。
蒼一族は泉近くの森の中、結界の中で生き、育ち、一生を終える。買い出しに年に2回外に出る者もいるが、の父と同じように、それによって攫われ、犠牲になる者もいたため、それに疑問を感じたこともなければ、特別外に行きたいと考えることもなかった。
過ごす日々は、まさに緩慢な終わりへと向かうのみだった。
結界の中では近親婚が常であったため、出生率は徐々に下がり、ますます子供は減った。確かに争いで死ぬ人は少なかったが、それでも終わりは見えていた。
だが、それはそれで、幸せだったんだろう。今はそう、思える。
「“すべては贈り物”っていう話を知ってる?」
は穏やかな調子で、マダラに尋ねる。
「なんだそれは、」
「蒼一族にはね。神代の時代のたくさんの物語が、伝わっているの。わたしたちの力は神代の時代の流れなんだって。」
嘘だと思うけど、と前置きする。
蒼一族は六道仙人の姉の血を引くとされ、かつては神官として弟に付き従っていた人の血筋だったという。実際に蒼一族の保有する血継限界透先眼は、先を透し見るという意味であり、悪しきものを見抜くと言われた。
今でも古代の名残のいくつかが、蒼一族に伝わっている。
もちろんもその伝説を全て信じているわけではない。ただ、伝わるその話の中に、「全ては贈り物」とう物語があった。
「神様が、人間が未完成だった頃、ある女の子が嫁ぐ時に、箱をあげたの。絶対開けてはダメだよって言い含めて。」
「開けたんだろ。」
「よくある昔話でしょう?」
忠告をされ、それを破った者の末路がどうなるのか、それは教訓を含む、昔話でよくある物語だ。当然、結末もだいたい似たようなもの、想像もつく。
「開けて、逃がしちゃったんだけどね、その箱の中身と結論が二つ伝わってるんだ。不思議でしょ?」
この物語の筋は、二つとも全く同じだが、箱の中身と結論は全く異なる。どうしてそうなのかは、蒼一族にも伝わっていない。
「一つ目は、その中に犯罪とか、戦争とか悪いことがいっぱい詰まっていて、それを開けてしまったからそれが全部世界に飛んでいったってお話。」
「悪質な贈り物だな。」
「慌てて女の子は蓋を閉めるんだけど、もう遅い。でも、中にはね。希望だけが入ってたって。」
「その話、俺も昔、聞いたかも知れないな。」
のんびり昔話など聞く暇は与えられなかったが、マダラも昔、似たような話を長老から聞いたような気がした。要するに教訓としてはありがちな話なのだ。確か、“パンドラの箱”という。そしてその時、感じた疑問は今も同じように覚えている。
「何故、希望なんだろうな。それは悪いものではないだろう?」
は自分の肩に乗せられているマダラの頭に、そっと手を伸ばし、宥めるように撫でる。
「解釈はいろいろあるけど、希望も、一つの災厄だって考え方なんだって。」
最たる災厄は、希望とされる。要するに人々は希望があるからこそ絶望することが出来ず、期待を胸に生きなければならない。これ以上に辛いことはないから、希望も災厄である、と。
「なるほど。深いな。」
マダラは顔を上げ、の手を取り、頬を寄せる。はマダラを見上げ、温かい彼の頬の感触を感じながら、くすくすと笑う。
「もう一つはね、そこにはいっぱいの神様からの祝福が詰まってて、それを逃がしてしまったんだって。」
「・・・他人には朗報じゃないか。」
「そうだね。」
「その時、箱には何が残っていたんだ?」
話の筋は一緒のため、マダラがに尋ねる。
「予兆。要するに未来を知る予知能力だって。」
それは、予言を司る蒼一族にその物語が伝わっている、まさに理由そのもの。
「残ったのは、希望の前兆、それを知る能力ってこと、」
未来ですべて何が起こるかわかってしまうと、人間は逆に絶望して生きることを諦めてしまう。しかし、前兆が最後に残された、それだけで外の世界の人は絶望せず生きられるというのだ。
「だが、それなら。その予知能力を持っているおまえらは、予知できるからこそ、世界に絶望し、結界の中に引きこもったって事か?」
マダラはその話の教訓と結論を導き出す。
予知だけが箱の中から放たれなかった、それが救いだとするのならば、それを持ち続ける少女はどうなるのだ。その物語が示すのは、予言の力を持つ蒼一族に他ならない。
「そうだね。そしてこの物語の教訓は予知能力を持つ蒼一族にとって、外の世界はつらいものだという、だから外に出るなって事だよ。」
普通の一族にとって、この話は、他人の言うことはよく聞きなさいと言う、忠告の物語に過ぎないだろう。だが、未来を見通す予言の力と千里を見通す透先眼を持つ蒼一族にとっては、外の世界は美しいが、同時に恐ろしいという、何よりの戒めだ。
「わたしはね、外の世界に出て、その話を、思い出したの。」
幼い頃に父から語られた、神代の時代の物語を、はあまり思い出すことがなかった。それを思い出したのは、マダラと出会って外の世界に出てからだ。
「この世界には、祝福も、災厄も紙一重で、どっちも同じだけある。」
は川の流れに目を戻し、軽く頭を傾ける。
川のせせらぎ、木の葉の擦れ合う音、違う場所は、違う自然があり、違う世界があり、違う人があり、文化がある。それは水面のようにきらきら光って、眩しくて、覗いてみたくなってしまう。触れてみたくなる。それは祝福かも知れない。
だが、同時にそれは災厄でもある。現実は、そんなに甘くない。
「希望だけ腕に抱えて留まっていたのが、わたしたちだと思う。」
災厄と隣り合うは外の世界の中に見た。そして、蒼一族の世界の価値を知った。希望や予知だけ抱えた自分たちの世界に大きな災厄はない。だからとても退屈で、でも穏やかで、当たり前のものが、幸せだと思える世界だった。
「それが悪いことだとは、思わない。だって、世界は残酷だもの。」
何故蒼一族が箱の中に閉じこもっていたのか、は外に出てその意味を知った。
災厄と祝福。放たれたのがどちらだったのかはわからない。両方だったとは思う。だが災厄はあまりに大きすぎて、祝福に目を向ける時間を奪っていく。
「マダラさんは、あんまり昔を思い出したくなかったんでしょう?」
は川の流れを見つめながら、そう口にした。
きっとマダラはここに来て、全てを川に流してしまいたかっただろうし、弱い頃の自分は思い出したくなかっただろう。あまりに過去の話をしなかったのも、きっと、過去の辛い思い出に向かい合うことが、彼にとってこれ以上ないほど辛いことだったからだ。
「わたしはね、確かに父上を亡くしたし、不安だったけど、多くの思い出はね。すごく楽しかった。」
の父はが10歳になる頃にはなくなっていたが、は幸せだった。寂しくはなかった。弟妹もいて、蒼一族の人々は家族のようにを気遣った。それに父との思い出がこれ以上ないほどたくさんあり、笑ったことも、忘れたくないから、辛いことを超えられる。
でも、マダラのそれには傷だらけだ。痛すぎて、思い出すことも出来ない。傷をえぐることになるから。
「マダラさんたちはきっと、災厄しか見えないんだね。」
は小さく笑って、マダラの方にゆっくりと体を向ける。彼の漆黒の瞳は少し戸惑っているようだったが、予想はしていたのだろう。
「ねえ、マダラさん、貴方はとても優しい人だよ。わたしはそれをよく知っている」
は膝立ちになり、彼の頬に手を伸ばす。その手にマダラの大きな手が重なる。
大きさは全然違うけれど、同じように温かい。悲しみも、苦しみも、喜びも、幸せも、決して違うわけではない。とマダラが願うものは、相違ない。そして誰がなんと言おうと、マダラが優しい人であることを、は誰よりも知っている。
傷ついて、悲しんで、優しいからこそ失うのが怖くて、他人にそれを向けるのを、諦めただけだ。
だから、そっと自分の額を彼のそれに合わせる。そして、静かに目を伏せる。覚悟には、少しの時間が必要だった。
視線を上げれば、そこにあるのは、災厄の全てを映してきた、彼の漆黒の瞳だ。そしてその向こうには、緋色の写輪眼がある。のように未来の希望を見る目ではなく、戦うために生まれた目なのかも知れない。だが、それを守るためにも使えるはずだ。
「わたしも貴方と一緒に怖いことも、悲しいことも一緒に見るから。戦うから。」
彼の頬に触れる手が震える。その手に重なるマダラの手も、震えていたのかも知れない。
彼の過去にある悲しい記憶は、の想像を絶するほどに残酷で、凄惨なものだろう。人の悪意や浅ましさもまた、彼が夢を諦めた原因だろう。彼がそれを取り戻すためには、残酷な過去と向き合わなければならない。
それは簡単なことではないと、マダラを見ていたらわかる。でも、それをも共有する。
だから。
「だから、わたしと一緒に、もう一度、平和という希望を見てくれないかな。」
話し合いが無駄なんて言わないで、幸せを見ることに怯えないで。失われるかも知れない他人の幸せを慮ることを、もう一度して欲しい。
「わたしは、平和が欲しい。」
箱の中に残った希望も、外の世界に放つから、だから、希望とともに、戦いではなくて前を向く努力をして欲しい。
それが、の願いだった。
わたしがほしいもの