深い闇の中では取り残されたまま、ずっと水面を見ている気がする。

 沈み方も知らない、歩き方も知らない。他の場所も知らない。だから闇の中に立ったまま、たまに上を見上げて屈託なく笑い、落ちてきた人の背中を押しながら、自分は抜け出し方も知らず、そこが当たり前だと思って、それ以外の時はただぼんやりとそこに佇んでいる。

 誰よりも深い闇の中で、自分がただ消えるのを、望み、待ちながら。




「空を見上げて楽しいか?」






 我愛羅は端近でぼんやりと空を見上げているに問いかける。

 この宿は日本庭園で非常に有名だと言うので見に来てみたのだが、は日本庭園を見ることなく端近で空を見上げ、目線は青空の雲を追っていた。この旅館の歴史を説明され、その後庭師に案内されて戻って来ても、フードを被ったままのは一ミリたりとも動かず同じ体勢だったので、さすがの我愛羅も尋ねずにはいられなかった。





「んー、癖みたいなものだよ。昔、動く物って空しかなかったから。でも結構楽しいよ。」





 はそう言って、笑って大きな紺色の瞳を瞬く。

 その笑顔は屈託なくて、曇りなく見える。事実彼女は間違いなく心からそう思っているだろう。別段そこに悲しみは介在しないように、笑っている。

 色はあまり変わらないが、その青い空を映す瞳の片方は既に見えていないのだという。足も歩けない程筋が傷つけられてしまっているらしく、大蛇丸に明日会う予定だが歩けるようになるかは望み薄だと言うことだった。


 それについて悲観的な感想が彼女から出てくることはほとんどない。


 うちはイタチに攫われるまで十数年もの長きにわたり、力を恐れられ、彼女は屋敷でひたすら幽閉され、人と会うこともほとんどなくただただ日々を過ごしていたのだという。人と触れあう機会は一ミリもなく、ただ疎まれていた彼女が世界を憎まなかったのは、ただ憎むほど何も知らなかったからだ。

 ナルトが泣きながら彼女の事を話すのを聞いた時、我愛羅も涙が出た。

 だが当のは幽閉時代のことも平気そうに話すのだという。幽閉時代は彼女を恐れ、食事を運んでこなかった者もいた。幼すぎて父の死が理解できず、帰るはずもない父を待ち続けていた日々もあった。話し相手も遊び相手もいなかった彼女は、孤独という言葉すらも知らないほどに人を知らなかった。

 憎むほどの他者を与えられなかった彼女は、純粋なままいびつに歪んでいる。






「もうすぐ雨が降るよ。」

「…何故そう思う?」

「くもがひらひらしてるし、雨の匂いがするから。」







 は核心を持って言う。我愛羅も彼女の隣に腰を下ろして空を見上げてみたが、確かに雲が所々にあるのはわかるけれどおおむね快晴だった。雨の匂いとやらもまったくわからない。







「曇りとか雨は嫌いだから、嫌だなぁ。」






 は少し唇を尖らせて言う。さらりとまっすぐの紺色の髪が彼女の肩口で揺れていた。

 最初に我愛羅が彼女を見かけたときよりも、随分と線が細くなった。戦いの中で鳳凰を従える彼女はすべての木の根を燃やすほどに圧倒的だった。なのに今は放って置けば消えてしまいそうに儚い。幼い容姿もその印象を助長させる。

 昨日敵に襲われてからの彼女は、随分と沈んでいるように見えたのに、今は何もないように、何もなかったように屈託なく笑っている。





「そういえば、サスケはどうした?」





 我愛羅はを見て、首を傾げる。

 サスケはを本当に心配しており、あまり離れることはないとナルトからも聞いている。というか、サスケの方がどちらかというとの方に依存しているという。だが今、の傍に何らかの気配はない。





「んー、…這って逃げて来ちゃった。」






 は少し悲しそうに目じりを下げて、笑って見せる。






「這って?!」

「うん。歩けないから。」

「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくてだな、」







 普通歩けないからと言って、這って動いたなどと言うものだろうか。確かに忍の中では様々な怪我で動けなくなる人間はたくさんいる。だが、こんなにあっさりと車椅子も使わずに這ってきたと言う彼女は、変だった。

 ついでに、あまりにあっさり言うので文句を言う気すら無くなる。拍子抜けするのだ。





「今頃探してるかも知れないぞ。」

「うん。でも、なんか、ひとりになりたかったんだ。」

「敵が、いるかもしれないのにか。」

「大丈夫だよ。」





 はにっこりと笑って、我愛羅に言った。その笑顔に曇りはなく綺麗なものだったが、その裏にある真っ暗で空虚な感情を無意識に感じ、我愛羅はぞっとする。





「…何が、だ?」






 その問いを、してはいけない気がした。だが、聞かずにはいられなかった。は一瞬真顔になって、鈴のようにころりと軽く笑う。






「わたし、チャクラ大きく使っちゃったら、死んじゃうし。それで終わり。」






 は今、大きな忍術を使えるほどチャクラを大きく動かすことは出来ない。かといって白炎の蝶を使った自動防御を使えば、自分の体がチャクラに食われる。透先眼は僅かなチャクラで動くため使えるが、敵に捕まれば大きな術を使わざる得ないだろう。

 要するに、は言っているのだ。捕まったとしても、利用されることはない。自分が死んで、それで終わりだと。


 だから、大丈夫だと。





「どこが、大丈夫なんだ…、それの。」







 震える声で、我愛羅が言うと、はきょとんとした。





「だって、わたしが利用されることはないでしょう?警備も必要なくなるし、怪我する人もなくなる。おしまいだよ。」






 我愛羅が何を心配しているのかが心底分からないと言った口調だ。実際に、は分かっていないのだろう。彼女は馬鹿ではない。だからこそ、最低限何が必要なのか、感情のない事実は既にきちんと理解しているのだ。

 だが、の口調はまるで自分が死んだ方が丸く収まると言って疑っていないようにすら見える。まさに、その通りなのだろう。






「おまえは、死にたいのか?」

「わかんない。でもやっぱりわたしは生きてるだけで、人に迷惑をかけるみたいだよ。」







 の目は、まっすぐ現実だけを見ている。

 確かに今のは透先眼を持つ希少な存在であり、その力を里に望まれると同時に、自身がチャクラをほとんど使えなくなっているため、常に護衛がつき、誰かがを守るために戦わねばならない。自分で自分の身を守れないために、誰かに守って貰わなければならない。






「力って、難しいよね。」





 は仕方ないなぁと、困ったように笑う。

 力があるから狙われる。ならば元々力が、自分がいなければ良かったのだと、彼女は心のどこかで、思っている。根本的に自分自身がいなければ良かったのにと思っているのだ。

 だが、それは人と人の感情を無視した物だ。






「おまえは、力ではないだろう?」






 我愛羅は悲しそうに目を伏せて、を見る。






、おまえは道具じゃないだろう?少なくとも、サスケやナルトは心からおまえを心配しているはずだ。」







 どういう形であれ、サスケはに依存しきっていると聞いている。彼はが自分の側から離れると不安になるのか、酷く狼狽えるらしい。それはサスケがたくさんのものを失ってきたからでもあるが、同時にを大切に思い、失うことに怯えているからだ。

 の価値はその力だけではない。







「…うーん、」






 は少し悩むような顔をして、目じりを下げる。








「でも、わたし、は…」







 ぼんやりとした紺色の瞳に、混沌とした闇が浮かび上がる。全く自分の価値が信じられない、ある意味でサスケすらも信じていない、そこにあるのは絶望にも近いような、真っ暗な闇だ。

 彼女の中に確固とした物は何もない。絶対的にを庇護し、世界のすべてだったの信じていたうちはイタチは消えてしまい、だからこそ、は無くした物に変わる何かを、見つけられていない。サスケの手を取り生きる事を選んだ今でも、やはりそれを見つられない。

 強い望みも、憎しみすらもないから、目指す物も、確固とした決意も強い感情がわからない。






「少なくとも、」






 が望む何かを、我愛羅が見つけてやることは出来ない。だが彼女がそれを見つけるその時まで、彼女を守り続けることが、彼女を傷つけ続けた世界の1つでもある我愛羅が、唯一出来ることだった。














平穏なる終わり
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