ちりんと簪が軽い音を立てる。
金の房飾り、金の糸がかけられ、真珠が連なっている。
簪自体は漆黒で、美しい蝶が象眼されている。
かつて、イタチがに贈った品だ。
―――――――年の数だけ、ひとつずつ真珠を贈ろう、
今連なる真珠の数は20に少し足らない。
そして、これから増えることはずっとない。
はすっとそれを光にかざす。
イタチとが共にあった8年近くの間で、日常品以外で、にきちんとした形で贈られた物はと
ても少ない。
二つの簪、安物の髪紐、紅玉の指輪。
誕生日の数にも足りない、
そもそも誕生日など、幽閉され、両親もなくなってろくに祝われたことのないにはわからない
し、父母なき今、誰も知らない。
だから、イタチは自分の誕生日と同じ日を誕生日にしようと、に改めて物を贈った。
それでも不器用な人で、何を贈ればいいかと迷うらしく、ここ数年は簪に連ねる真珠だけをもら
っていた。
自信も何が欲しいかと問われても、いつも何もなかった。
窓から入ってくる柔らかな陽光にきらめいて、簪が光る。
眩しい。眩しすぎる。
イタチの死の影は、きっと何年たっても消えない。
なぜなら、の心を育てたのはイタチなのだ。
心の奥に残るなんて簡単な物ではなく、イタチはの心そのものだったし、死してなお、深淵に
根付いている。
例え死ぬことを諦めても、サスケに思いを告げられても、心には必ずイタチの存在がある。
だから、は戸惑っていた。
『好きだ、』
告げられた言葉は、低く、イタチの声に少しだけ似ていた。
好き、と。
優しいその言葉はイタチに何度もかけられた言葉だ。
穏やかで、優しい漆黒の瞳。
そんなイタチを思っていたは一瞬サスケを彼と重ねて、同じ色合いのその瞳を見て違うと気付
いた。
激しい、もっと狂ったような熱を持つ、瞳。
違う、と改めて感じた。
サスケは日頃無表情で冷たい。けれど、荒ぶる、激情を持っている。
対してイタチは穏やかだった。行動も、言動も酷く優しく、心も穏やかだった。
年齢的な違いなのかはわからない。
サスケとイタチは似ていると言う人がほとんどだが、正直は全く似ているとは思えなかった。
だから、別人に思いを告げられたように感じた。
サスケとイタチを完全に重ねることが出来たなら、感情の意味も恋情もよく知らないは、それ
が本当の思いだと勘違い出来たかも知れない。
イタチへの想いがサスケへと移ったのだと思い込めたかも知れない。
けれど、やはりイタチへの想いはそれほど簡単な物ではなく、またサスケとイタチは兄弟とはい
え違いすぎて、心が受け入れられなかった。
「好き、」
イタチが、好きだ。
きっと忘れられない。愛おしいと、今でも思う。
彼が生き返ったら、は迷わず彼を選べるが、彼はもうこの世にはいない。
ただ、サスケに口付けられたことは嫌じゃなかった。
思いを告げられたことは、嬉しかった。
「わたし・・・・」
酷い、
それではまるでどっちでも良いみたいだ。
イタチにも酷いし、サスケにも酷い。
「死んだ方が良いかも・・・・」
本気でそう考えてしまう。
今でも愛おしいイタチへの裏切りでもあるし、一緒に生きようと言ってくれたサスケへの不義理
でもある。
「最低、」
心の中で、現実で、何度も自分を罵り、は三角座りをした自分の膝に顔を埋める。
自己嫌悪で涙が溢れてくる。
「・・・・・」
今の自分でも、イタチは優しく頭を撫でてくれるだろうか。
そんな女はいらないと罵られるだろうか。
それでも、何故か無性にイタチに会いたくて、その温かな胸に躯を預けたくて、たまらない気持ちになった。
「おまえ、何やってんだ。」
頭上から高めの声が聞こえる。
顔を上げると、香燐が腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「香燐、ちゃん?」
「何惚けた顔してんの。ほらさっさと立つ。布団畳むから。」
そう言ってうむ言わさずを布団からどけて、てきぱきと布団をたたみ出す。
まだ寝間着のは驚いて涙の溜まった目をぱちくりさせた。
香燐はたたみ終わると、の服を荷物から勝手に取り出す。
「何寝間着で惚けてんの。サスケが心配してたぞ。」
昨晩、いつもはサスケと一緒に眠るのに、は香燐の部屋に押しかけた。
香燐は渋々受け入れたわけだが、はいつもと違い、サスケのところに着物を着せてもらうため
に行くこともせず、のろのろと10時になっても起きようとせず、今はすでに11時だ。
身支度をすませれば昼ご飯でも構わない時間帯である。
「何しょげてんの?」
鬱陶しそうな顔で、香燐が尋ねる。
「なんでもないの。」
はへらっと笑う。
だがそれが、香燐の機嫌を頗る損ねたようだ。
「なーにが、なんにもないんだ?この口か?」
びっとのほっぺたを引っ張る。
は今まで遊びとはいえ暴力を受けたことがない。
紺色の瞳を限界までまんまるにして、香燐を見上げた。
「何、そのマヌケな顔。」
「ふぇ、ふー・・・・」
香燐はあっさりとほっぺたを離したが、痛みには涙目になりながら自分の頬をさすった。
結構本気で痛い。
「サスケも様子が変だった。」
「え?」
「二人で買い出しに行ったってのにえらく早く帰ってきて、アンタは閉じこもりだ。何かあったっ
て考えんのが普通だろ。」
どさりと香燐はの傍に腰をおろす。
話を聞こうとする雰囲気が隣から流れて、はどうしたらいいのかよくわからなくなった。
まして、香燐はがイタチの寵姫であったことを知っている。
の最悪な感情を知って、軽蔑しないだろうか。
そう思うと、は口を噤むしかなかった。
「何があったんだ?」
「・・・・・なんにも・・・・」
「あー、も。そんなウソいらない。」
「だって、言ったら香燐ちゃんわたしのこと嫌いになるもん。」
「なんだ、サスケでも誘惑したのか?」
「誘惑?」
意味がわからない。
が首を傾げると、香燐はつまらなそうに顔でため息をついた。
「こっちは結構心が広いんだよ、」
「・・・・でも、最低だもん。」
「おまえの知っている最低なんてたかが知れてるさ。」
長い間幽閉されていた。
彼女は戦争や世界の酷い事件を知らない。
忍を駒のように扱って犠牲にしたり、人体実験を平気で行い、人を人と思わない人間だってたく
さんいる。
香燐にとっての知っている最低なんて、たかが知れている自信があった。
「だって、わたし、イタチ、なのに、」
とまりかけていた熱さが顔に戻ってきて、目尻から涙が溢れる。
それを堪えるように、はまた膝に顔を埋めた。
感情が、こみ上げてくる。
ぐるぐる回る思考を宥めるように、そっと頭を撫でられた。
「おまえ、考えすぎだろ。」
香燐は何度もの頭を撫でる。
優しい温もりがイタチに似ていて、変な気分になった。
「サスケにキスされて、嫌じゃ、なかった。」
ぼろぼろと感情が溢れて、崩れていく。
それはイタチに縋ったあの日と同じ。
泣いてはいけない、強くないといけないとはわかっていたけれど、一度溢れた感情は全てはき出
すまでとまらない。
「わたし、イタチ好きなのにっ、一生、すきなのにっ、」
何も知らなかった自分に心を教えてくれた。
暗い、閉じられた世界から、連れ出してくれた。
たくさんの物を、愛情を与えてくれた。
愛おしくて、大好きで、自分の一番の人。
目を閉じれば今でもその優しい笑みがはっきりと浮かぶのに、どうしてそんな酷いことを出来た
のだろう。
他の人に、好きだと言われて、キスをされて、嬉しかっただなんて、
「、うちはイタチは死んだんだ。」
香燐ははっきりとに告げる。
はひぅっと声を飲み込む。
死んだ、もうこの世界のどこにもいない。
他者に言われれば、認めざる得ない事実は、の心を追い詰める。
「でもっ、イタチは、イタチはいるのっ、」
「死人は悲しみもしない。嘆きもしない。」
香燐は優しくの頭を撫でながら、冷たい台詞を吐く。
がどれほどイタチに罪悪感を持とうと、相手のイタチにもう二度と会うことはない。
死人が生き返ることなど、ありはしないのだ。
だから、が気に病む必要はない。
はイタチに対しても、サスケに対しても、真摯な態度を示している。
一番簡単なのは、おそらくサスケをなくしたイタチの代わりにしてしまうことだ。
そう思えば、彼女は何も悩まなくてすむ。
兄弟なのだから似ているだろうし、サスケはを想っている。
誰かの代わりにされることは不幸以外の何者でもないが、罪悪感を持つサスケは受け入れただろ
う。
しかし、はそうしなかった。
懸命に悲しみ、嘆いてもイタチとサスケを違う人間と認識し、認め、それぞれを見て、悩んで、
嘆いている。
死者から、感情が徐々に生者に移ることは、罪だろうか。
「変わっていくことは、悪いことじゃない。“イタチが好きだ”それはまだ過去形じゃないかもし
れない。でもイタチの存在はもう、過去だろ?」
「それは・・・、」
「辛いかも知れないけど、過去と現在は別の物だ。交わることはない。」
どれ程思おうと、過去のイタチに触れることはない。
温もりを分かち合うことも、泣くこともない。
「そんなの、怖いよっ、」
どんどん、時を進めば進むほど、過去は遠くなる。
現在はすすみ、過去の思い出は遠くなってしまう。
イタチから、遠くなってしまう。
そんなの嫌だ。
でも、あらがいようのない壁を超えることは誰も出来ない。
は現在で泣きじゃくり、イタチは過去の思い出の中でしか存在しない。
手を伸ばしても、あるのは思い出だけ。
過去で、現実として、今、愛し合うことも、言葉を交すこともない。
思い合った、愛し合った。
もう、この想いは過去の人への一方通行でしかない。
永遠の片思い。
「泣いとけ、」
香燐がの頭を抱き寄せる。
自然なその動作が、懐かしくて、悲しくて、心が軋む。
「うっ、ぁあ、ひっ、」
嗚咽が口から零れ、手で顔を覆う。
イタチが死んだ時、涙が涸れるほど泣いたというのに、現実だと理解したはずだったのに、は
まだどこかでイタチが居るように感じていた。
生きて、歩いてさえいれば、また会えるように、離れてしまっただけのように考えていた。
でも、人の死という物は、全く違う。
すべてが、なくなってしまう。
この世から消えてしまう。
ぞくりと体中を冷たい感覚が走り抜ける。
それが死
死ぬということ。
「、生を渇望しろ、死を恐れろ、望みに貪欲であれ。きっとそれが、生きるってことだ。」
香燐は小さく震えるに告げる。
認めなければならない。二度と戻ってこないことを。
知らなければならない。二度と彼との道が交わることはないことを。
そして、覚悟しなければならない。彼の居ない世界を生きることを。
泣きじゃくりながら、は心の中でやっとイタチの死を理解した。
代用恋愛
( それは 望んでも良い物なのか )